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絹の考古学入門(その4)
殉死とは
王や后妃、諸侯、諸侯婦人などの権力者が亡くなった
とき、寵臣や側近、寵妾(ちょうしょう)、愛婢(あいひ)、多くの奴婢達が王の
墳墓の陪葬坑(ばいそうこう)に自主的又は命令で葬られる事を言うので
す。が、王が亡くなってから幾多の儀式などを経て壮大
な墳墓に葬られる迄に長い時間がかかると思われます。
寵臣達はそれら諸般を一切すませて自ら陪葬坑に横たわ
るのか、他所で静かに自害して葬ってもらうのか歴史は
語ってくれません。殉死を命じられた側近の兵や員数合
わせの奴婢奴隷達の気持ちはいかばかりか心が痛みます。
殉死の風習が起こって来たのは中国の東周の時代以降
の春秋戦国の時代から秦に至るまでの紀元前700〜約7
00年間のようです。日本でも規模や形式は違っても、明
治の時代になっても殉死と云う風習は残っていました。
時代背景
中国山東省の東周期とは青銅器から鉄器に移り変って
行き、鉄と云う新しい文化に触発され、諸国の王が覇を
競う戦国時代への移行期でありました。
南から伝わって来た絹の生産が北東中国でも盛んになっ
て来た時代で、絹はまだまだ未精練や無撚糸の紬の様な
素朴な織物が主であったと思われます。この時期、絹の
製糸技術(特に撚りをかけた細い糸がつくられ始める)
が急速に発展しはじめ、絹は権力者にとって自ら装って
権力を誇示する絶好の品であるばかりか、周辺諸王との
外交の重要品目として重視され始め、家臣に下賜する効
果的品でもありました。後世絹は臣下への給与の一部に
なって行くのです。
出土品から推測
当時の出土品に、銅壺に鋳出された「躬桑礼(きゅうそうれい)」の図柄
の物があります。それはその年最初の春(はる)蚕(こ)を飼いはじめ
る為の桑摘み儀式の図柄で、后妃、諸侯婦人も蚕母(宮
中で養蚕に携わる女性)や蚕婦(諸侯の元で養蚕〜織布
に携わる女性)達と一緒に桑摘みをしている様子を現わ
しものです。これは宮廷や諸侯の間で養蚕が盛んに行な
われていた事を物語っています。
そんな時代の古墳から蚕形玉髄(ぎょくずい)が発掘されました。
これは蚕母、蚕婦達の養蚕、製糸、織布技術が向上する
ように権力者が高価な翡翠で作らせた蚕型の装飾品で、
常に腰から両方の太もも付近に紐で向かい合わせの対で
吊下げていたと思われます。
彼女達は常にこれを履き、国の盛衰を賭けて細い糸作り
と薄くてよりしなやかな織物を作る事を求められていた
のでしょう。艶々して、薄く、しなやかな絹織物は、国
威示す象徴的な物になって来ていたのです。
蚕母、蚕婦の殉死
王、が亡くなると、ここで働いていた大勢の中から15
才〜30才くらいの若い女性の幾人かが、命により蚕形玉
髄(玉蚕)を佩き、王の墳墓の陪葬坑に葬られたのです。
いずれの玉蚕も出土部位の骨格の腿(もも)から足の傍で発見さ
れています。王の墓からは絹織物、絹糸束、錦など残り
にくい絹製品が沢山出土していますが、残念ながら陪葬
坑には骨と玉蚕しか残されていません、坑の作り方によ
って絹は早く分解して残りにくいので、彼女達の装束は
どのようであったか分かりません。何も衣類の痕跡が残
っていないとしたら、絹を着せてもらってあの世に赴い
たと思われます。彼女達はどんな風に葬送されたのでし
ょう、哀しむべき事と云う他はありません。
殉死の背景考察
この墳墓は紀元前400年頃のものではないかと推測さ
ます。これから後、絹の利用範囲は寒さを防ぐばかりで
なく鉄の武器(鏃(やじり)など)ら身を守る事が出来る有効な
機能が認識されはじめ、諸王は競って絹の増産に励むよ
うになりました。特に北東中国では北方異民族が西進、
南下を繰り返すようになり、その防備に異民族に負けな
い強い大兵団を組織する必要に迫られていました。増産
される絮(じょ)(絹綿)を兵に支給し防寒防弾着をつくらせた
のです。絮衣は軽く、兵の戦闘能力を増大させたばかり
か、馬への負担を減らし、絹の抗菌性等の機能性により
外傷ケアに効果があり、皮膚疾患の予防にもなって『絹
は力』となってゆくのです。
村役人は各戸を回って養蚕を薦め、緜(めん)(高級な真綿)
絮(低級な真綿)と織物を厳しく取り立てる様になりま
した。こうして絹は鉄と共に国を富ませ強くする、表裏
一体の新しい産業として歴史に登場して来るのです。
富国強兵
日本でも大化の改新後の7世紀中頃、朝鮮の白村江の
戦いに出兵した兵士に緜甲(真綿を固く加工したもの)
と絮衣を着せたといわれています。
昭和の初期には絹が日本の輸出総額の45%前後となり、
富国強兵の国策を支えたのでした。
絹の考古学入門(その3)
銅鐸の鋳画像の推敲
銅鐸
銅鐸は弥生時代の青銅器の一種、形は釣り鐘状、上方
に半円形の鈕(ちゅう)、両方に扁平な鰭(ひれ)状の突起があり、厚手の
物は20㎝、薄手の物は150㎝と大きさは様々で、近畿
地方から多く出土していて、祭祀の為に制作された物と
考えられています。
その側面の多くは狩猟、漁労、農耕の三つが表現されて
います。しかし上記の1、2図に関しては諸説がありま
すので、諸説をご紹介しながら色々推考してみたいと思
います。いずれも活動の刹那を捕らえた表現が多く、絵
画と言うにはあまりにも抽象的で、叙事詩を語る絵文字
のようにも見えます。想像をかき立てられます。
稲の虫払いの道具説
弥生時代近畿以南はウンカの発生が多く、麻柄(あさがら)で作っ
たカセでイナゴをかせぎ落とす神事をしたと云われてい
ます。虫送りの行列が村はずれまで行き、銅鐸の多くが
村境に埋められている事がその証ではないかと云われる
所以です。
コンパス説
高床式住居など複雑な建築物が出現し、正確な円や直
角を描く事が必要になり、カセの横木を垂直に立て円を
描いたと云う説、上図3がそれを示唆しています。
漁具説
上図2には魚が描かれています。手に持つ道具は魚を
採る延縄(はえなわ)を巻く糸巻きで、まるい点線は魚を入れる編袋
ではないかと云う説。但し数多く出土した銅鐸の中で魚
が描かれている物は他に有りません。
水平器説
人物像が手に持つ工字形器具は水田をならすとき使う
水平器ではないかという説。
糸巻を取る「かせ」説
この時代身体を保護する織物は食と同じく大変重要な
日常作業であったと思われます。従来のどの植物繊維か
ら作る物より、軽くて柔らかく、温かい絹と云う新繊維
が普及し始め、春繭が収穫され、糸を紬ぎ、機織りの準
備が整う天の川が綺麗に見える頃、池や川の水の畔(魚
などの恵みに感謝)に高床の棚小屋を作り、そこに女性
(棚機つ女(め))が心霊を受けて機(はた)を織(お)った神事を「七夕ま
つり」として絹の普及増産に努めた事などを考えると、
銅鐸の1、2の表現は、糸を紬いでその糸を桶にとり、
そこから手に持った道具、即ち「カセ」に巻き取る姿で
はないだろうか、図4からも推測出来るところから、こ
の銅鐸の表現は「カセ」という説が有力になりました。
疑問 ? ?
図4の女性は、立て膝をして、「カセ」を胸元に持っ
ていて、片方の手は自分の膝上で桶からの糸を支えてい
ます。ところが、銅鐸の表現1は「カセ」を自分の目線
より少し高めに持ち上げて、片手は空を掴んでいます。
図2も類似しています。此れ等の図柄が糸を巻き取る「
カセ」と断言するにはやや躊躇します。
当時中国から度量衡のシステムが移入され、「カセ」は
糸を「カセ」に取る道具であり、何回巻くと1反分の糸
である、と云うふうに糸の量を測る道具として大切にさ
れたのではないだろうか。この長さの基本は家を建てる
時も、魚を獲る延縄を作る時も使われたではないでしょ
うか。銅鐸の奔放な図柄は糸を巻き取る道具としてばか
りでなく、尺度の基本として活躍している姿ではないだ
ろうか。
稼(かせ)ぐ
銅鐸が作られていた時代、糸を「カセ」に巻きとリ綛(かせ)
(カセからはずした糸の束)を作る事を「カセグ」とい
った様です。沢山綛を作れば当然豊かになります。いつ
の間にかお金を稼ぐ事をいう様になりました。
絹の考古学入門(その2 糸質、繊密度の変遷)
絹の繊維は時代と地域により変化
小氷河期が過ぎた1万年〜8千年前、地球の温度が現
在より5℃近くも高くなり、針葉樹から広葉樹が繁茂し
て来ました。桑の木も、その葉を食べるクワコも大いに
繁殖し、その環境の中で、中国の浙江省付近で野性のク
ワコから家畜化された1化性蚕(年1回羽化)の小型な
家蚕が誕生しました。
それらの蚕は北や南に伝わり、より温暖な南に伝播した
ものと、寒冷北に伝わったものとでは、気温違いで餌の
量と桑の葉の栄養素の違いで、数千年という長いい間に
様々な品種に分化して行きました。
糸質も地域年代によって南の丸みのある糸、北のやや扁
平な糸など様々になって行きました。
絹繊維の変遷
発掘される絹は人骨に付着していたり、刀剣などの柄
に巻かれていたり、漆と絹で作られた棺の一部であった
り様々です。
古いものを鑑定する為には、それらの絹がいつの時代、
何処で作られたか特定する必要があります。放射性炭素
測定などでは100年前後の誤差がありますが、おおよそ
の年代測定は出来ます。しかし何処から運ばれて来たか
は判りません。
近年それを特定する新たな三つの方法が(京都工芸繊維
大学、布目順郎教授提唱)定着して、放射性炭素測定よ
り細かな年代測定が出来るようになりました。その手法
によれば何時の時代のどの地域で作られた糸か、おおよ
そ見当がつくようになりました。
この方法により世界の博物館などの年代未確定絹収蔵物
の数々の年代確定をする事が出来るようになりました。
その一つは糸の「断面積」(糸の切片を作り、セリシン
で固められた2本のフィブロインの片方の面積)を測る
方法です。この断面積はその地域の年々の気温の変化に
微妙に連動しているのです。その僅かな違いを読み取る
方法です。これは古代から現代迄の気温の変化の記録と
発掘された膨大な絹の断面積計測データーの蓄積のたま
ものといえるでしょう。
次に糸の「断面積完全度」(断面積を計った半お握り型
繊維の最長で円を描き、円の面積と繊維の面積の空間率
)を測る方法です。気温が低い年代や地域では数値が低
く、糸がやや扁平になり、気温が高いと逆になります。
絹糸は時代と共に微妙に変化しているのです。
更に「ウラジネス繊維」(糸からはがれたほんの微細な
枝毛)を観察する。
中国の漢の時代以前までは繭から揚げた生糸のニカワ質
部分を精練して取り除く事が無く、ハリハリした状態で
利用されたようで、糸はニカワ質に固められていて枝毛
は出ないので、時代判定の一つの根拠になっています、
織り密度
絹は他のどの繊維より細い糸を作る事が出来ます。
一つの繭から揚げた糸を忽(こつ)と言い、5個の繭から揚げた
糸を「糸」といっていました。
今日、糸と云えば撚りが掛かっている物が普通ですが、
新石器時代から春秋戦国時代までの中国では、絹織物は
撚りのかかっていない無撚糸を使っていました。
殷の時代頃になっても撚糸技術は未発達でしたが、経糸
(たていと)80本緯糸(よこいと)30本(1センチ四
方)という非常に細い糸を作り、織の技術は全て平織り
ですが、薄い織物を作る技術をもっていました。 漢の
時代までには撚糸、精練技術が発達し縦糸120本と云う
極細糸で絹が織られるようになり、この様な絹織物を蝉
の羽根の様に薄く霧のように柔らかいと言いました。
唐の時代になると地球の気温が現在より2℃ほど上昇し
て、繊度も太くなり、繊り密度も経糸68本緯糸36本と
いったやや粗な物に変化します。宋の時代になると多彩
な文化が花開き、絹織物技術も多岐に渡って来ます。
日本では縄文式時代の繊維の発掘物は苧麻、大麻、藤な
どの様々な植物繊維が紐(ひも)や縄(なわ)に使われていて、稀に絹と
思われる痕跡が土器等の付着物にあるようですが、衣類
としての織物は発見されていません。
弥生時代になって無撚糸の織物が出土されますが、平織
りで、織り密度は粗い経糸28本本緯糸18本くらいの物
が多く、中国に比べて製糸技術が未発達であった事が伺
われます。 それら等の糸は繭から直接糸を引き出す「
ずりだし」又は真綿から撚りをかけずに引いた「紬」で
あったようです。この方法は古墳時代まで続きますが、
弥生時代末期、卑弥呼が魏帝に献上した和錦も紬糸を使
った物であったのでしょうか。奈良時代になると撚り糸
の織物が多くなり、織り密度も経糸50本緯糸35本前後
の物が多くなって来ます。室町時代のなると人の趣味趣
向が多岐に分化して来て、経糸緯糸の本数が接近した織
物など多様な染織文化が花開いて来ます。
絹の考古学入門(その1 日本の絹のルーツ)
絹の考古学へのきっかけ
昨年京都市立大学の漆の研究者から古墳から発掘され
た棺の一部と思われる物の切片の顕微鏡拡大写真をメー
ルでいただきました。それは漆で絹と砂が45層に重なっ
た板状の物で、この絹はどの様な種類で、いつの時代の
物か判りませんか。という依頼でした。
蚕から吐糸された糸の断面が中央部に「お握り型」に見
える所が散見され、周辺に「変形三日月型」の所が混在
していて判断に困りました。切片を作るとき周辺が押し
つぶされたとも考えられましたが、変形型の方がやや多
いので、変形型の特徴がある日本の山野に生息する「天
蚕」ではないかと返信しました。後日、東京農大昆虫機
能開発研究室の先生にそれぞれの糸の断面積の計測など
をして頂いた所、「これは6世紀前半の中国の揚子江中
流で採られた家蚕の糸ではないだろうか」という所見が
ありました。私はこの事に感銘を受け、仕事の合間に絹
の考古学を紐解くようになりました。
絹の考古学に必要な基礎知識
官能検査1)目視—家蚕、野蚕の判断(絹の艶の差)、
糸撚り、織方、織密度、染色深度、
文様,経年変化
2)触覚—家蚕、野蚕の判断(繊度差)、繊度
偏差(古代〜現代繊度偏差減少)
科学的検査法3) 光学顕微鏡、走査電子顕微鏡、放射
性炭素測定
各種知識4)分類形態学、生態学、細胞学、遺伝子学、
育種学、生物地理学、
5)歴史学、人類学、民族学、民俗学
6)気象学(石器時代〜現代、世界の地域毎の
気温、海水位)
7)絹に関する漢字–意味を理解し日中古文書を読む
多用される漢字の意味
「絹」という字は今日の日本では絹の全てを指してい
ますが、古くは中国では勿論、日本でも絹の状態を表す
ために多くの字が使われていました。古事記、続日本記、
風土記、延喜式、養老律令、令義解など読むに当たって
随所に使われている絹を指している漢字の意味を解説し
てみましょう。
絹一般をさす字は「帛(はく)」という字が使われています。
その中でも少々質の劣るものを「糸曾(そう)」としています。
「絹」は平織りの中程度の織物を指し、平織り以外の物
は「綾」,「錦」等々、織りの形状によって沢山の字が使
われています。同じ平織りでも経(たて)緯(よこ)糸が細く織り密度が
高い(含、羽二重)高級品は「糸兼(けん)」。平織りで糸の太
い物を「糸施(せ)」といい、より太くて固い物を「糸巨(きょ)」、
太く甘撚りの物は「紬(ちゅう)」と書いています。
綿は緜((めん()上質)、絮(じょ)(低質)。
絹、シナ種の誕生
小氷河期が過ぎた1万年前頃には地球の温度が現在よ
り5℃位上昇し、動植物が活発繁茂しました。狩猟で生
活する石器時代、野外の昆虫は子供でも簡単に採取でき
る栄養豊富な大切な食料でした。桑の葉に付くクワコの
繭は鋭利な石器でも切る開く事はなかなか難しく、繭ご
と口に入れて噛むと口の中に残った糸が束なって口から
出て来ます。それが人と絹の出会いであったと思われま
す。これを飼い馴らし、昆虫の家畜化に成功したのです。
それが現在の中国の浙江省付近のクワコ(生殖細胞染色
体28)からはじまったといわれています(日本クワコは
同染色体27)。こうして年1回羽化する一化性の蚕「シ
ナ種」が誕生したのです。気温上昇で栄養豊富な桑の葉
も春から秋まで育ち、蚕が二化生に進化し、八千年前頃
には発祥地から亜熱帯まで南下した蚕は通年餌があるの
で、多化性(何回も羽化する)、三眠蚕(3回休眠)に進
化し、北上した蚕は気温も低く餌の葉の育つ期間も短い
ので、一化性から二化生(4眠蚕)に留まりました。
日本への伝来
第1ルート:中国東南部と南下した蚕—丸みのある糸
弥生前期—中国南部→東シナ海→北九州(養蚕技術50
0年滞留)。 一化性、二化成蚕
弥生中期—雲南→東シナ海→北九州→瀬戸内→畿内
〃 〃→八丈島→東海地方。二化性、多化成蚕
この時は現在雲南地方に住む非漢族の苗(みゃお)族が中国南東部
海岸線に居住しており、彼らが進化した二化生、多化性
蚕種と染織技術を持って直接日本に渡って来たと思われ
ます。八丈島に今でも苗族由来のカタッペ織りが存在し
ています。彼らが織る錦織は弥生後期卑弥呼の時代の倭
錦となり、魏の皇帝への献上品になったと思われます。
第2ルート:中国東南部を北上した蚕—扁平で細めの糸
弥生中期—楽浪(北部朝鮮)→日本海沿岸(北陸)
北上ルートの蚕種と染織技術を持って長期間
にわたり、幾度も大量移民。
ミニ展示会・サリー、ドレス
ヴァナラシサリー(黒サテン紋織り)・
タイシルク玉虫ワンピース ¥50,000
タッサ赤ワンピース ¥60,000
サリー地黒チュニックコート¥48,000 オリッサ絣サリー
ワンピースはパターンオーダー可能です。
サリーからの1点ものオーダーも是非ご用命下さい。
絹の来た道 これからの道(その5)
絹の多角利用
絹は今日まで数千年に渡り高級な繊維として利用され
て来ました。ところが30年ほど前東京農工大学の平林教
授により、食べるシルクが発表されると、にわかにその
方面の研究が各研究機関で盛んになって来ました。
時を同じくする様に昆虫機能や蚕の遺伝子組み換研究が
脚光を浴びて来ました。
食べるシルク
その様な時代、絹織物の盛んな滋賀県長浜では屑糸等
の有効利用を模索していました。京都の加悦町では第3
セクターを立ち上げ、加水分解したシルクパウダの発売
を始めました。それはシルクを食べると体脂肪減、高血
糖値抑制、痴呆症予防等が期待されると云う夢の様な効
果を期待するものでした。その後酵素分解法などが開発
されましたが、シルクパウダの分子の連鎖の大小で上記
の効果が著しく異なる事が判明して、塩化カルシューム
溶解法などが開発され、メタボ対策用、高血糖値抑制用
など用途に応じたシルクパウダが作られる様になってき
ました。昨今では機能性食品として高血糖値抑制のため
の美味なサプリメント等が販売されています。
また宇宙飛行士用食品開発にも注目されています。
私は「ヤセヤセ缶ジュース」の様な手軽なシル入り食品
が一般化して来る事を期待しています。
無菌培養養蚕
蚕の人工飼料が開発され、年間何度でも工場で繭生産
出来る事業が、蚕新産業の要請を受け、軌道に乗って来
ました。飼料が高価なのでさらなる努力が必要です。
医療品開発
蚕は家畜化された18種類の必須アミノ酸を作る昆虫
で、生命のサイクルが30日弱と短いので、試薬実験動
物に多用されるようになりました。無菌培養された蚕か
らインターフェロン等が作られています。また無菌培養
シルクを使った化粧品は年々愛好者が増えています。
今やシルクは簡単にパウダやゲル、高野豆腐の様な固
形物にして保存し、何時でも目的に応じて利用出来ます。
シルクは医療素材に使用しても拒否反応がありません(
シルクアレルギーは稀に存在)。古くは手術の抜かない縫
合糸からはじまって、今日では骨や皮膚、血管まで作ら
れる様になり、法整備が進みコストが安くなれば、絹は
親和性が高いので長期リハビリの要らない医療資材が現
実の物になろうとしています。
蜂の巣もシルクですが、糸は採れませんのでゲル状の
爪ケアー用品が売り出されました。2020のオリンピック
に日本のバレーボール選手が使用する事になりました。
工業製品の開発
シルクはプラスチックやビニールシートの様にもなり
ます。脱プラスチック時代を受けて防腐効果の高い皿や
ストローが使用後には健康維持食材としても利用できる
様になるでしょう。野菜などにシルクを被せておくとし
おれが遅くなります。その様な事から鮮度維持容器など
にも利用される日が来るでしょう。
また内装材としても有効です。シルクの壁は人の気持
を和やかにしてくれます。昔から貴賓室などにシルクを
壁に使用するのはその為です。火災の時も強力な耐熱効
果を発揮し延焼を遅らせ、有毒ガスの発生も有りません。
蜘蛛の糸もシルクです。細くて、軽く張力ではシルク
よりはるかに優れています。大腸菌に作らせた蜘蛛の糸
製造が日本で成功し、世界の注目を浴びています。
紫外線が当たると数時間ではあるが強度を増し、刺激を
受けると強く収縮する(捕獲糸)繊維は他に例が有りま
せん。今後の研究が待たれます。
貝絹とは貝の紐や貝が岩にくっ付く成分です。この生
態研究で水中接着剤が開発されましたが、まだまだ沢山
の機能性が隠されていると思われます。
遺伝子組み換え蚕
遺伝子組み換え技術が急速な進歩を遂げ、蛍や珊瑚の
遺伝子を持った蚕が青白く光る糸やオレンジ色に光る糸
を作る事に成功し、一般飼育が始っていますが、カルタ
ヘナ法で蚕の糞や残食の処理が厳しく規制されていて、
確たる処理方法が確立していないので、今後の発展が危
惧されています。
昆虫機能開発
蚕の脱皮ホルモンやヨウジャクホルモンの調整でニ
ワトリの卵大の繭も、スズメの卵くらいの小さな繭も自
在に作る事も出来るようになりました。
ヤモリはなぜガラス板を垂直に登れるか。蝉の羽はど
うして汚れないか、なぜ玉虫の羽根の色は退色しないの
か、アブラムシの匂いセンサー等の研究に専念して未来
産業につなげようとしている研究者が増えています。
ヤママユガ科の繭の多孔質繊維の数々の未解明機能性
の研究は急務です。
絹の来た道 これからの道(その4)
日本の繭生産、養蚕技術世界一日本の繭生産、養蚕技術世界一
日本は繭生産世界一と信じておられる人が大勢います
が、今から80年くらい前の事で、絹五千年の歴史の中
でほんの80年間くらいのものです。それは明治初期か
ら昭和の日中戦争が始る以前(繭生産高約40万t、昭
和13年の輸出総額の約45%)迄で、他の期間は中国が
世界一です。太平洋戦争後やや復活しますが、化学繊維
の出現と労働集約的な養蚕事業が敬遠され、繭価格も他
産業就労に比べて低廉で、治水事業が整備され、転換作
物等の奨励もあり、現在はほんの少量(約200 t)です。
しかし明治初期〜昭和60年代にかけて研究された日本
の養蚕技術は現在も世界一です。
その技術はタイ、インドなど東南アジア諸国に、最近は
アフリカ諸国(エチオピア、ケニア等)にODA等を通
して移転されています。しかし完全家畜化された家蚕と
いえども、養蚕は簡単なようでなかなか難しく、何処の
国でも成功するとは限りません。
養蚕世界一への道程
日本の養蚕は米の伝来と同じ頃中国から伝えられたと
いはれ、古墳時代から奈良、平安時代に至迄中国や朝鮮
半島から大勢の養蚕、機(はた)織、染色移民を招聘して絹産業
の振興に努めて来ました。7世紀になると国内生産が一
段落して、大化の改新において朝服の絹の着用と官位に
よる色を決めました。しかし十二単に見られるように上
着は唐からの舶来物を着るのが一般的だった様で、高級
品は渡り物の時代が江戸時代後期まで続きます。貨幣経
済が発達して来た江戸時代には絹の需要は増すばかりで、
その需要に応えたのがオランダ船で清(中国)の廈門(あもい)から
長崎にもたらされる絹(織物、糸)でした。
オランダ商人はその対価を純度の高い慶長小判等を求め、
流通小判の不足が生じる一因にもなり、江戸幕府は純度
の低い貨幣改鋳を繰り返すので、オランダ商人はたまり
かねて一朱銀を求めるようになって行きました。
一方幕府は奢侈(しゃし)禁止令を出し、庶民に絹(生糸の織物)
や華美な色彩の物を着る事を禁じてきました。
江戸時代後期になって遂に幕府は中国からの生糸の輸入
を禁じたのです。そこで困ったのが中国の上質な生糸を
使って高級品を織っていた西陣はじめ諸国の高級機屋で
した。彼らは中国に劣らない糸を国内で作る事に東奔西
走して中国に勝るとも劣らない糸を作る事に成功して行
くのです。これが絹生産世界一になる第一歩でした。
アヘン戦争と明治維新
江戸時代末期(1840年以降)ヨーロッパでは欧州全
域に猛威を揮っていた微粒子病(蚕の病気)でヨーロッ
パの養蚕業が壊滅状態になり絹生産が止まり、需要に応
じられなくなっていました。インドを植民地にし、綿花
やスパイスを手に入れたイギリスは更に東進をすすめ、
東インド会社をして中国の絹を手に入れようとアヘン戦
争を起こしたのですが、清朝が弱体化して絹を思うよう
に輸入できなくなってしまいました。
その様子は琉球を通してつぶさに見ていた薩摩藩が明治
政府の主導権握ると殖産興業の柱を「絹」に据えたので
す。この事が絹生産世界一になる第二の大きな要因です。
渋沢栄一と富岡製糸場
江戸末期はより良い糸を作るため各藩、特に水利が悪
く稲作が不向きの地域では蚕種、養蚕技術の改良に熾烈
な競争をしていました。それを指導したのが豪農の蚕種
業(養蚕農家に蚕の卵を売る)の人々でした。
渋沢栄一は現在の埼玉県深谷市の蚕種農家で蚕種、養蚕
技術の改良に心血を注ぎ、山形地方など対抗する何処よ
りも優れた蚕種と養蚕技術を確立して行きました。
それから京に出て維新の混乱の中を生き抜いて士分にな
り、明治政府の民部省(現経産省)に入り、西欧視察の
経験と人脈を生かして、フランスの最新式動力製糸機と
技術者を群馬県富岡に誘致招聘し「富岡製糸場」を明治
5年に創業させると云う大仕事を成し遂げるのです。
一方、東京青山に養蚕所を開き皇后陛下にも養蚕をして
頂き、現在も続いています。
富岡製糸場が果たした役割は実に大きなものがありま
した。それ迄の日本の絹は各藩の規格で、品質のバラツ
キが多く、幕府は検査を通ったものに印紙を貼らせたり
改革に努力をしていましたが、輸入業者を困らせていま
した。富岡製糸場は各藩の藩士の子女を中心に募集し、
技術の伝習を終えた者を郷里に帰し、各地の製糸技術と
糸の品種の向上を計りました。
また、政府は蚕糸業法を制定し、蚕種の管理を徹底し、
各県に蚕糸試験場を設置して蚕の生理、病理、飼料、機
具などの研究と養蚕農家の指導に当たらせ、収量増大に
つなげてきました。短期間で繭の世界一生産国になれた
のは明治と云う時代のうねりはあったものの勤勉な国民
性が大きな要因ではなかったでしょうか。
日本は繭生産世界一と信じておられる人が大勢います
が、今から80年くらい前の事で、絹五千年の歴史の中
でほんの80年間くらいのものです。それは明治初期か
ら昭和の日中戦争が始る以前(繭生産高約40万t、昭
和13年の輸出総額の約45%)迄で、他の期間は中国が
世界一です。太平洋戦争後やや復活しますが、化学繊維
の出現と労働集約的な養蚕事業が敬遠され、繭価格も他
産業就労に比べて低廉で、治水事業が整備され、転換作
物等の奨励もあり、現在はほんの少量(約200 t)です。
しかし明治初期〜昭和60年代にかけて研究された日本
の養蚕技術は現在も世界一です。
その技術はタイ、インドなど東南アジア諸国に、最近は
アフリカ諸国(エチオピア、ケニア等)にODA等を通
して移転されています。しかし完全家畜化された家蚕と
いえども、養蚕は簡単なようでなかなか難しく、何処の
国でも成功するとは限りません。
養蚕世界一への道程
日本の養蚕は米の伝来と同じ頃中国から伝えられたと
いはれ、古墳時代から奈良、平安時代に至迄中国や朝鮮
半島から大勢の養蚕、機(はた)織、染色移民を招聘して絹産業
の振興に努めて来ました。7世紀になると国内生産が一
段落して、大化の改新において朝服の絹の着用と官位に
よる色を決めました。しかし十二単に見られるように上
着は唐からの舶来物を着るのが一般的だった様で、高級
品は渡り物の時代が江戸時代後期まで続きます。貨幣経
済が発達して来た江戸時代には絹の需要は増すばかりで、
その需要に応えたのがオランダ船で清(中国)の廈門(あもい)から
長崎にもたらされる絹(織物、糸)でした。
オランダ商人はその対価を純度の高い慶長小判等を求め、
流通小判の不足が生じる一因にもなり、江戸幕府は純度
の低い貨幣改鋳を繰り返すので、オランダ商人はたまり
かねて一朱銀を求めるようになって行きました。
一方幕府は奢侈(しゃし)禁止令を出し、庶民に絹(生糸の織物)
や華美な色彩の物を着る事を禁じてきました。
江戸時代後期になって遂に幕府は中国からの生糸の輸入
を禁じたのです。そこで困ったのが中国の上質な生糸を
使って高級品を織っていた西陣はじめ諸国の高級機屋で
した。彼らは中国に劣らない糸を国内で作る事に東奔西
走して中国に勝るとも劣らない糸を作る事に成功して行
くのです。これが絹生産世界一になる第一歩でした。
アヘン戦争と明治維新
江戸時代末期(1840年以降)ヨーロッパでは欧州全
域に猛威を揮っていた微粒子病(蚕の病気)でヨーロッ
パの養蚕業が壊滅状態になり絹生産が止まり、需要に応
じられなくなっていました。インドを植民地にし、綿花
やスパイスを手に入れたイギリスは更に東進をすすめ、
東インド会社をして中国の絹を手に入れようとアヘン戦
争を起こしたのですが、清朝が弱体化して絹を思うよう
に輸入できなくなってしまいました。
その様子は琉球を通してつぶさに見ていた薩摩藩が明治
政府の主導権握ると殖産興業の柱を「絹」に据えたので
す。この事が絹生産世界一になる第二の大きな要因です。
渋沢栄一と富岡製糸場
江戸末期はより良い糸を作るため各藩、特に水利が悪
く稲作が不向きの地域では蚕種、養蚕技術の改良に熾烈
な競争をしていました。それを指導したのが豪農の蚕種
業(養蚕農家に蚕の卵を売る)の人々でした。
渋沢栄一は現在の埼玉県深谷市の蚕種農家で蚕種、養蚕
技術の改良に心血を注ぎ、山形地方など対抗する何処よ
りも優れた蚕種と養蚕技術を確立して行きました。
それから京に出て維新の混乱の中を生き抜いて士分にな
り、明治政府の民部省(現経産省)に入り、西欧視察の
経験と人脈を生かして、フランスの最新式動力製糸機と
技術者を群馬県富岡に誘致招聘し「富岡製糸場」を明治
5年に創業させると云う大仕事を成し遂げるのです。
一方、東京青山に養蚕所を開き皇后陛下にも養蚕をして
頂き、現在も続いています。
富岡製糸場が果たした役割は実に大きなものがありま
した。それ迄の日本の絹は各藩の規格で、品質のバラツ
キが多く、幕府は検査を通ったものに印紙を貼らせたり
改革に努力をしていましたが、輸入業者を困らせていま
した。富岡製糸場は各藩の藩士の子女を中心に募集し、
技術の伝習を終えた者を郷里に帰し、各地の製糸技術と
糸の品種の向上を計りました。
また、政府は蚕糸業法を制定し、蚕種の管理を徹底し、
各県に蚕糸試験場を設置して蚕の生理、病理、飼料、機
具などの研究と養蚕農家の指導に当たらせ、収量増大に
つなげてきました。短期間で繭の世界一生産国になれた
のは明治と云う時代のうねりはあったものの勤勉な国民
性が大きな要因ではなかったでしょうか。
絹の来た道 これからの道(その3)
絹の軍事利用
古代から絹(生糸)は美しい織物として権力者によ
って多用されて来ました。
ところが、長繊維である生糸は繭の20%~30%しか採れ
ず、残りは屑糸となり、紬として庶民にも利用されて
来ました。紬は蝉の羽根の様に薄く艶やかで、霧の様
に柔らかくとはなりませんが、軽くて丈夫で温かく、
夏でも蒸れず、寒冷にも凍結しにくく、緩衝性にも吸
臭性にも優れていて、気持ちを和らげます。
その様な素材を権力者が見過ごす訳が有りません。
緜衣(めんい) 緜甲冑(めんかっちゅう)
中国の殷、周の時代になると大陸の中で派遣争いが大
規模になり、青銅製の兵器等の金属兵器から兵士を守る
為、大量に生産され始めた繭から得られる絮(じょ)(真綿)や
屑繭から兵士の外装や兜を手軽に大量に生産し、軍事に
利用され始めたのです。鉄兵器の時代になっても清の時
代に至るまで利用されて来ました。
漢時代の墳墓の兵馬俑の服装をお思い出して頂ければ解
りやすいですが、唐の時代には紙絮(絹の屑を紙に漉い
た物)、明の時代でも綿甲(繭を濡らして木鎚(きづち)で紙のよう
に薄くした物をタイル貼りの様にベースの生地に鋲で打
った物)が盛んに使われていました。
清の時代になると、緜衣に菱形の鉄甲板を鋲でとめた武
官鎧が作られていたという記録が有ります。
ローマ帝国の兵士もシルクロードからもたらされた緜衣(めんい)
を着て戦ったところ、敵の矢を防いだという話が残され
ています。
蒙古軍「 絹と羊毛のフエルトで世界制覇」
蒙古では羊毛は沢山とれますが絹は生産されません。
絹の機能性を知ったチンギスハーンは万里の長城を超えて
中国に侵入すると「先ず銀を奪うべし、次に絹を奪うべし」
と命じ、奪った絹を羊毛と混ぜたフエルトを作らせます。
(羊毛と真綿を大きな恵方巻き(のり巻き寿司)のように
簀巻(すまき)きして水をかけて馬で平原を長時間曳き回して作る)
これは強力な防矢性を発揮するばかりでなく、軽く軽快で
戦闘性が向上し、野営する兵士には防寒に役立つばかりか
絹の抗菌性による皮膚病等の予防になり、馬の疲労も和ら
げ、行動距離が増し、兵士の士気はグンと向上したのです。
特に黄河より南は羊毛フエルトの軍装では夏期の駐屯は暑
くて不可能でしたが、絹羊フエルトの軍装は温度が上がり
過ぎず南下を可能にして、タイ国境にまで進出し、東ヨー
ロッパにまで制覇する事が出来たのです。
鎌倉時代日本に襲来した時の蒙古兵は絹羊フエルトワンピ
ースとブーツ、先頭兵士は金属兜ですが、後方兵士は緜甲
冑でした。この時の戦闘の様子を記した当時の記録に「蒙
古兵は射れども射れず、斬れども斬れず」とあります。
蒙古の元は絹を利用してアジア大陸を制覇したと考えても
よいでしょう。
日本の絹生産 「刀と戦争」
日本では7世紀白村江に出陣する兵士に緜甲冑を付けさ
せた記録が有ります。
鎌倉時代、元弘の役の苦戦に懲りて、絹が斬れる刀を作
らなければ蒙古兵には立ち向かえないと考えた時の政権は
絹が切れる日本刀を作ることに心血を注ぎ、軟鉄に玉鋼を
巻き鍛えて、反りの研究を重ね、五郎正宗をして、日本刀
を完成させるのです。
戦国の武将は、刀傷を少しでも防ぐ為と、鎧の中の熱や
汗、臭いを和らげる為に、平面繭(蚕に繭を作らせず、平
な広い所に蚕を置いて和紙の様な絹を作らせる)を着用した
と云われています。
日本が絹生産世界一の時代
昭和10年台になると、絹は輸出総額の45%前後になり、
このお金で軍備を拡充し、第2次世界大戦をアメリカ、イ
ギリス等連合国と戦争をすることになったのです。
その時、日本の航空兵は暖房のない機内で身体を冷やさ
ないため絹のマフラーを首にしっかり巻き付けて搭乗し
ていました。落下傘もさらりと開かせるため絹で作られ
ました。北支派遣軍の冬の軍装に軽くて暖かく、緩衝性
に優れたエリ蚕が使われました。
これからの絹の軍事利用
昨今世界中で軍事用に研究されている絹は「蜘蛛の糸」
です。蜘蛛の糸は蚕の絹より優れた機能性が多く、特に
張力は蚕の糸よりはるかに勝っています。
現在は軍事用防弾チョッキ製造が期待されていて、集団
で飼育出来ない蜘蛛に代わって、蜘蛛の糸の遺伝子に組
み替えられた家蚕に蜘蛛の糸を量産させようとしていま
す。また、大腸菌に蜘蛛の糸と同じ物を作らせる事に成
功したようです。
絹は今後もっと多方面に利用されて来ると思われます。
絹の来た道 これからの道(その2)
絹の製法秘密厳守
中国で絹が作られてより、歴代の古代王朝はその製法
が流布する事を禁じてきたようです。
先ず蚕種の流失を厳しく取締り、次いで製糸技術も制限
したようです。
特に薄衣をしなやかに纏う事は権力者の象徴であり、富
裕の証で有りました。
絹布は権力者から臣下に褒美、他国、他民族との外交品、
上司から臣下に、臣下から上司に祝儀として盛んに使わ
れていました。
絹を差配する事は権力者の大きな財源でもありました。
今日でも使われている「羽振りが良い」とは、薄衣を靡
かせて歩く姿を言ったものです。
絹の製法の伝播
中国の漢の時代になると、シルクロードが整備され、
ローマや西方の国々との交易が盛んになって、絹の需要
は高まるばかりでしたので、中央アジアからローマに至
る国々では蚕種をなんとか入手し、自国で絹を作ろうと、
時の中国の王朝に対してあれこれ画策するのですが、な
かなか実現しませんでした。あるとき中央アジアの国の
王子が中国王朝の姫と婚姻する事になり、中国からはる
ばる輿入れするとき髪飾りの中に蚕種を入れて来るよう
に頼んだ、と云う話があるほどでした。
現在のアフガニスタン周辺の国々はシルクロードの中継
貿易で栄え、そこを通ってシルクが運ばれて来るので、
ローマの人々はシルクが中国ではなく中央アジアの何処
かで作られていると信じていました。またローマの人々
はシルクが何から作られているか知りませんでした。
やっとヨーロッパの入り口のトルコ(現在)に伝わる
のが6世紀というのですから、絹が作られてより三千数
百年、シルクローロが拓けてから千年弱シルクの製法の
秘密を守ってきた歴代中国王朝の手腕に驚くばかりです。
東方の日本にはどうでしたでしょうか。
日本には日本在来種の中国とは違った「クワコ」がいま
したので、これを利用して絹の紬を作っていたのかも知
れませんが、養蚕技術は稲作と一緒に伝わったというの
が定説です。稲作、即ち縄文後期なので、今から三千数
百年前には中国から家畜化された蚕種が伝えられたと思
われます。そうすると中国の歴代王朝は極東の日本を含
めて自国の範疇と考えていたのでしょうか。
後世、卑弥呼が魏の国に朝貢した時、献上した絹布は素
朴なものであった様で、紬ではなかったでしょうか。
魏の王からは当時の日本では見た事もない目映いばかり
の錦織三反、平織り絹布百反を賜ったと魏志倭人伝に記
されています。その当時まで日本には錦織は勿論、羽振
りをきかす様な絹織物を作る技術は伝わっていなかった
と考えられますが、それを必要とする権力が存在してい
なかったと言った方がよいかも知れません。
養蚕技術
生糸で絹布を得るには、繭の糸口を見つけて、3粒〜
10粒を合わせて揚げ、精練、撚糸して織物を作るのです
が、紬糸を作る作業に比べて、大変精密な技術が要りま
す。中国の漢の時代以前には既に蝉の羽のように薄く、
霧のように柔らかい絹織物が出来ていたのですが、4世
紀の倭の国にはそこまでの技術が無かったと思われます。
日本が絹織物の技術を本格的に導入し始めたのは大和
朝廷が確立する頃からで、その当時中国や朝鮮から大勢
の職人集団が幾度も渡来して絹産業を興隆させて行くの
です。その職人集団は大和周辺で技術を伝え、それが一
段落すると、彼らに官位など付与して日本各地に移封し、
その技術を各地に広めたのです。
三河の国にも彼らの移封があり、上質な繭を産する国と
して名声を高めてゆくのです。
絹の着用
三国志や韓国、日本の時代劇映画を見ると、支配階級
の人々はいずれも艶のあるしなやかな衣装を着ています。
楊貴妃にしても高松塚古墳の壁画に描かれている女性達
はみな薄衣を纏っています。
日本では各地で繭の生産が増し、絹加工技術移が一段落
した大化の改新の時、貴族等官位ある人々の公式時には
色で官位の区別をした絹の着用を義務づけました。
また当時宮中の祝事等のとき、祝儀の品として絹織物が
盛んに諸臣に配られたといわれています。
現在のテレビ等で見る韓国の時代劇は位階による着用色
がはっきり区別されていて参考になります。
但し、主に生糸をとった残りなどで作られる紬は、生糸
に比べて艶がなく、しなやかさにも欠けますので庶民に
も着用が許されていしました。
この事は江戸時代まで続きますので、絹は庶民には身近
で遠い存在になって行くのです。
ミニ展示会、泥染め・琉球藍
毎年奄美大島に行き染めています。
伝統の懐かしい泥染めもタッサの光沢でモダンに!
琉球藍の藍は茄子紺のような何とも言えない不思議さが魅力です。
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