Archive for the ‘絹の話’ Category

犬頭神社

2022-07-30

犬頭(けんとう)神社に参拝

 

 

 

 

 

予てより三河の豊川の千両( ちぎり)の犬頭神社に参拝したく思

っていましたが、三河湾の佐久島で貝紫染めの体験会の

帰路立ち寄る機会を得ました。

訪ねた時は鳥居を超えた所に一抱え以上もあろうかとい

うご神木の桑の木に実が沢山なっていました。

本殿の脇に大きな桑の木の切り株があり、脇から細い梶

の木が葉を広げていました。絹の紙から植物(梶—クワ

科のコウゾ族、ご神木の使われた)の紙への移行を示唆

している様でした。

犬頭神社縁起

 犬頭神社は律令国家が始動し始めた大化の改新の頃の

西暦640に創建されたと伝えられています。

創建当時の社名は判りませんが、保食神(うけもちのかみ)(農業など食物

を司る、注1)と糸繰姫神を祀って来た様で、古くから

農業が振興した地域と推測されます。

平安時代に成立した延喜式(927年)や今昔物語りには

「犬頭」という社名についての記述があります。

今昔物語によれば、三河の国の郡司(国司のもとの地

方官)の本妻の蚕がみな死んでしまって家は貧しくなり、

郡司は繭をよく育てている第二妻の所に入り浸り、本妻

のもとに帰ろうとしませんでした。本妻は桑の葉に一頭

だけ残った蚕を育てようとしましたが、飼っていた犬が

蚕を食べてしまい、その犬をどうしたものかと思案して

いると、くしゃみをした犬の鼻の穴から2本の糸が450

両(3000㎏)も出てきて、糸が出尽きると犬も倒れて死

んでしまいました。本妻は犬を桑の木の根元に埋葬した

ところ、その桑の木に沢山の蚕がついて素晴らしい白い

繭が採れました。しかし本妻はそれを練ってしなやかな

細い糸にする方法が分からなく、思いあぐねている所に、

第二妻のもとから帰ってきた郡司は、第二妻の家ではグ

レイがかった糸しか採れなかったのに、白い繭を見て驚

き、本妻のもとに帰り、艶やかな白い生糸を仕上げて、

家は豊かになりました。郡司はこの話を国司に伝えたと

ころ朝廷に報告され、「犬頭」という糸の名前で「調」

として朝廷(蔵人所)に収められ、天皇の衣装も織られ

る様になったという物語です。

「ちぎり」と呼ばれるこの地域はこの繭のおかげで豊か

になりましたので「千両」と記され今日に至っています。

その後、この糸は「犬頭糸」「犬頭白糸」と言われるブ

ランド糸となり、神社は「犬頭神社」と称されるように

なりました。

令義解(律令の解説書:833年)によれば三河の新城

で採れる犬頭糸が「赤(あか)の糸」(注2)と称して伊勢神宮

に奉納され、今日でも愛知県の新城から伊良湖岬に至る

各神社で「御衣(おんぞ)祭」をして奉納が続けられています(注

3)。

しかし神服部神社御由緒によれば御衣を織る「赤の糸」

とは「三河大野ヨリ調進スル赤引キノ糸〜〜青ク光ル

〜〜」とありますので、「赤の糸」は白い糸が採れる家

蚕の蚕種が中国(朝鮮)から伝わる以前のクヌギやブナ

等を食性にする天蚕のうす緑の艶やかな糸ではなかった

でしょうか。

延喜式

 延喜式は905〜927にわたって書かれた養老律令施行

細則(50巻)で、その中の9、10巻の神明帳に全国の

神社が国、郡ごとに式内社(官幣、国幣に預かる神社)

として3132座、2861社記されたていますが、犬頭神

社の記載は無く、別巻に記されているのではないでし

ょうか。

犬頭神社の鳥居の前に立つ大きな石柱に「郷社」と刻ま

れていましたので式内社でない事は確かです。それが近

年モルタルで埋められて石柱の横に「昇格」と彫られて

いました。

犬頭神社の故事は日本の絹産業のあけぼのを物語る

 今昔物語の記述は養蚕の事をよく知らない人が書いた

と思われる記述ですが、それでも当時の養蚕技術の進捗

期の実情がにじみ出ています。

この当時は既に家の中で養蚕をしていたと思われますが、

桑の木の葉にいた一頭の蚕が犬にたべられた云々は野外

のクワコを指していると思われます。野外では幼虫時は

鳥、吐糸直前には猿などが好んで食べ、時として病気も

発生します。また人の生活も昆虫食が盛んで、子供達等

が繭を噛んで蛹の汁を吸い、口の中に残った糸を口から

出して紬糸を作る足しにしていたと思われ(注4)、神

社縁起(保食神—口から食べ物を吐き出す。糸繰姫神—

紬糸)から推察すると繭を食べたのは犬ではなく、獣害

か病害でわずかに残った繭を人が食べてしまったと考え

られます。

この絹糸の作り方は、日本書紀に登場する「海彦山彦」

の物語(大和族と隼人族の戦い)の山彦(神武天皇の祖

父)がワタツミ(海神、綿津見)の国(当時揚子江の河

口周辺)に失った釣り針を探し求めに赴いたとき(注5)、

そこに居住していた苗(みゃお)族(鉄器の秦の軍隊に青銅器の苗

が敗れ、現在はタイ北部方面に居住)から伝えられた絹

の紬の文化と思われます(東伝の絹、注6)。

犬の鼻から2本の糸がとめどもなく出てきたという記述

は中国(朝鮮半島)から朝廷経由か直接能登半島経由で

白く大きな量産型の蚕種と繭から生糸を揚げる技術が伝

えられた事を物語っているのではないでしょうか。

そして郡司は渡来技術者集団(育桑、養蚕、製糸、精錬、

染色、織布などの職人)から製糸や精錬技術を習得して、

白いしなやかな糸を作ったのでしょう。この糸が都に運

ばれ錦や綾、羅が織られる様になり、この集団が周辺各

地に広がり、天蚕糸を伊勢神宮に奉納していた先住の人

達の利権を奪っていったものと推測されます。

奥三河から南信地方にかけて、今日でも昆虫食が盛んで、

目鼻立の整った唐沢性の人が多いのはその様な歴史に由

来しているのでしょうか。

 

注1)保食神(うけもちのかみ)—保食神は天照大神の高天原から遣わされた

月夜見尊(つくよみのみこと)を接待するために色々な食べ物を口から吐き

出して接待したところが、月夜見尊は汚いと言って保

食神を斬殺。その後天照大神は太陽、保食神は月とな

り、暦による農業の始まりを示唆。

注2)赤(あか)の糸—古代、三河大野の赤日子神社のある「赤孫」

(あかまご)で産する青く光る糸(天蚕紬糸?)。

現在は家蚕の白い糸でも伊勢神宮に奉納する時は「赤

の糸」と称している。

注3)絹の話(41) 絹と伊勢神宮:今泉雅勝著

律令時代の「御衣」は宮中から遠江浜名湖岡本に位田

を賜り、神御衣妖化守護(従五位の下)に任ぜられた

神服織(服部)氏(帰化人?)が当初は古から地元で

採られていた赤の糸(天蚕紬糸)で織っていたが、彼

等がもたらした犬頭白糸へ移行させたのではないだろ

うか。

注4)2010年頃、豊橋の百貨店で繭を見た年配女性が、子供

の頃、生繭をお八つに親からもらい、繭を噛んで口に

残った糸を口から引き出し、親に渡したと言っていま

した。同類の話は埼玉の川越、京都でも経験者から聞

いています。

注5)日本語大漂流:茂在虎男著

注6)絹の東伝:布目順郎著

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

貝紫を染める

2022-07-30

1997年、私共(インド染織研究会)は三河湾の一色漁

港の日曜日の競り台を借りて、地元で獲れるアカニシ貝

で「貝紫」を染める事を始めました。

貝紫の色は澄んだ赤みのある色で、精神ストレスに効果

があると言われ、古代西洋では「力が宿る」色と信じら

れていたようです。

佐久島の島興し

三河湾の佐久島が島興し(アカニシ貝等の漁獲物を獲

って付加価値をつけて売る)に貝紫染めをしようという

事になり、名古屋工業大学の先生と私(筆者)が島の人

達に染色の技法を伝えに行きました。当初はマスコミに

も取り上げられ、体験会場なども整備され、徐々に観光

スポットになって来ましが、観光客が増えて来ると来島

者から貝の匂いが臭いとクレームがつき、閉鎖のやむな

きに至りました。

日本で古代の貝紫染めをだれでも自由に安価に体験でき

る所が無くなってしまった事は残念です。

しかし私共は会場を変えてコロナ禍の2年を除いて、5

月の紫外線が強くなって来た時期に休まず実施して来ま

した。研修者の中には国際貝紫研究会で活躍する人も出

ています。

貝紫染めの今昔

貝紫は紀元前16世紀頃フェニキアで染められ始めた

フェニキア紫で、貝から獲れるその染料は極めて少量、

高価でアレキサンダー大王はじめローマの皇帝や貴族、

クレオパトラなどの権力者が独占的に使って来ました。

それゆえ帝王紫(ロイヤルパープル)、クレオパトラ紫

などとよばれて来て、その製法は極秘にされました。

しかし東ローマ帝国滅亡(15世紀)の頃になると世界

の桧舞台から消えて行きますが、染色法の開発も進み、

キリスト教と共に続けられて来ましたが、いつの間にか

パープルではなくスカーレットの赤になりました。

日本では弥生時代の吉野ケ里遺跡の発掘の中から絹麻織

物の絹の部分の色が貝紫染めと認定されて、貝紫研究ブ

ームが起こって来ました。

現在では南米メキシコのオアハカの海岸でインデオの男

性がプロポーズする結納品として荒海の危険な海岸の岩

場に付着している1枚貝(ヒメサラレイシ)を綛(かせ)糸に押

し付け紫に染め、彼女のもとに持参する風習が続けられ

ています。その調査実習が行われ、広く雑誌等で紹介さ

れ、国内外の研究と実務者の活発な活動が始まりました。

貝紫染めとは

温暖な海に生息するアクキガイ科の貝(肉食)のパー

プル腺液(二枚貝などを捕食する時、捕食する貝を麻痺

させる)を染材に塗りしませて、直射日光に当ててパー

プル腺液(臭素を含むジブロモインジゴ)がクリーム色

から紫色に変わる染色技法です。

この紫色は空気酸化と紫外線によって発色するので、日

光堅牢度はラックダイ(カイガラムシ)や紫根とは比較

にならないほど強靭です。

それ故、ローマに赴くクレオパトラの御座船の帆布の日

焼けを防ぐ為に貝紫で染め、ローマの貴族を驚嘆させた

という話は有名です。

日本の律令時代、高貴な色とされた貝紫を装束の官位の

色に使われることはありませんでした。それはあまりに

も膨大な労力が必要で、均一な染色が不可能であったか

らであろうと思われます。

しかし古くから伊勢の海人さんが自分達の潜衣や頭巾に

海難魔除けの印を描いて来ていました。

貝紫の染色法の発展

直接塗布

古来から行われている染色方法で、貝のパープル腺の

ある部分を割ってパープル腺の中に筆を入れ、その練乳

の様な液を筆や版木などで直接に糸や布に塗り染める。

またはパープル腺液を器に取り集め、よく撹拌し海水で

液の濃度を調整し、薄布等で不純物を濾した液に糸や布

を漬ける方法があります。

どちらも紫外線に当てて発色させますが、紫外線の弱い

曇りの日の発色は紫グレーの様な色になり、干すのは長

波光の多い夕方より短波長の多い朝の光の方がすっきり

した発色になり、色にも筆舌し難い迫力が出ます。

染液化した加工染料

近年開発された貝紫染め染料として発売されています。

炭酸カルシュームとハイドロサルハイト(還元剤)を使

い、熱を加えて染色する方法でムラなく均一に染まり、

今日の一般的な貝紫染になっています。

 近年秋山眞和氏によって開発された、パープル腺液を

乾燥粉化し、いつでも染められるようにした還元建方法。

貝紫染めの難題の解決

貝紫染めは染色中もその後も染料の中に含まれる臭素

の為、染色後狭いところ保管しておくと少しずつ減臭し

ますが、臭いが気にならなくなるのに数年かかります。

染色直後に数日直射日光と風にさらすと臭いは消えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

絹のマクラを作る

2022-07-30

絹枕使用体感              

 

 

 

家蚕枕

 

先日、絹から高血糖値を下げるサプリメントを作って

いる会社から絹の残綿の有効利用はないかと相談を受け、

早速、複数の絹加工会社にサンプルを送り、検討を依頼

しましたが、繭の色々な部分が混じり、桑葉の小片、草

木の小枝なども混入し、通常の状態ではないので、精練

やカードなど、手間をかけても歩留まりも悪く、一般的

な絹紡糸を作る事は不可能な事が判りました。

そこで糸〜織物という発想を捨て、開繭されて適当に切

断され綿から手でゴミを取り除きカードして絹綿を作り、

絹綿100%の枕を試作して使ってみました。

頭を枕に乗せるとフワっと耳の近くまで周りの綿が盛り

上がり、それでいて頭の着枕部分はそれほど沈まず、綿

が分かれず、柔らかーい暖かさに包まれ、その暖かさは

耳の下から喉を伝わり肩まで包み込んでくれます、その

感触の良さは筆舌し難いものがありました。深い眠りに

つけた事はいうまでもありません。半年来右肩の凝りが

ひどくなり、うっとうしい毎日が続いていましたが、翌

朝、肩こりが消えているのにビックリ。身体の動きも何

となく軽やかに感じたのです。常に野蚕絹のシーツと下

着上下を着て寝ていて、絹の肌触りには慣れていると思

っていましたが、また新たな絹の感触と機能性の恩恵に

出会いました。

絹と活性酸素

今まで絹は薄く使われて来ましたが、上記の枕の様に

あまり加工を施さず、厚く使う事で絹が人体にどの様な

機能性を発揮するのか調べてみる必要を痛感しました。

絹は保温、保湿効果により血行促進をする事はよく知

られていますが、それだけではこの劇的な肩こり解消は

説明出来ません。

家蚕絹フィブロイン(通常の糸に使う部分)は20種類

のアミノ酸(体外から摂取しなければならない9種類の

必須アミノ酸と体内でつくられる11種類の非必須アミノ

酸)で構成されていますが、その中に0.2%のシスチン

(非必須アミノ酸)、0.1%のメチオニン(必須アミノ酸)

が含まれ、それが毒性の強い活性酸素の電子を吸着して

中和するので肩こりを癒してくれる一因だろうと考えま

した。

活性酸素とは

大気中に含まれる酸素分子がより反応性の高い化合物

に変化した分子や元素の電子などの量子をいいます。

人はこれがないと生きて行けませんが、活性酸素が過剰

になると毒性が強くなり、その電磁波を中和しなければ

老化をはじめ様々な病気や癌の要因になると考えられて

います。一口に活性酸素と言っても9種類ありそれらの

毒性を中和する物の中には緑黄野菜や魚(青魚)介類が

あります。それらにはビタミンCやE、カルチノイド、

ホリフェノールなどの抗酸化物質が多く含まれます。

ところが食品や人が持つ酵素では中和出来ない活性酸素

が有り、絹のアミノ酸は体外から少しではあるがそれを

を中和しているのではないかと思した。

絹の枕が気持ちが良いわけ

1)細繊度と柔らかさ

絹の糸は繊維が細く、絹糸を構成しているアミノ酸の

60%を占める軟結晶部分が空気や水分を溜池の様に調

整し、保温、放温、保湿、放湿を人体に沿うようにコ

ントロールしているので、しっとりした安堵感のある

柔らかい肌触りを感じ、幸せホルモンの分泌につなが

ると思われます。

2)空気

細い繊維の束の中に沢山の空気が含まれます。

さらに絹の軟結晶に含まれる空気と繊維の多孔質(野

蚕のみ)間の空気が三重構造になって気持ちの良さを

増幅しています。

長期使用していると糸間の空気が減少して気持ちの

良さも減少して来ます。その時は枕の綿を手打ちし

て空気を入れて下さい。元に戻ります。

手打ちには時間がかかりますが、絹の糸間を通った

空気を吸うことは広葉樹林の森林浴効果が期待でき

気持ちが落ち着きます。

3)アミノ酸の機能性

絹は人と同じ20種類のアミノ酸(人と絹ではアミノ

酸の構成比は異なります)は親和性に優れていて肌

になじみます。

シルク(家蚕)のアミノ酸の40%強を占めるグリシ

ン(野蚕は20%~30%)は神経伝達物質でオキシト

シン(幸せホルモン)の分泌を促し、安眠効果をも

たらします。

但し、これらは人の体内にあっての効果であって、

体外から体内と同じ効果は期待できないと思います

が、他の繊維では感じられない気持ちに良さはアミ

ノ酸効を考慮しなければ説明ができません。

4)絹鳴り

枕の中の細い繊維は頭が動くと繊維同士がずれて絹

鳴りの音を発していると思われます。この音は耳に

は聞こえず皮膚が感じる音です。(但し、糸の精錬の

仕方でシュシュという音を発する事があります)こ

の音も気持ちを癒してくれるのではないでしょうか。

琵琶など和の弦楽器はこの聞こえない音を利用して

いるのでしょうか。

 

*ご注意!枕は丸ごと洗濯しないで下さい。綿は洗い

ません。洗うと絹綿が硬くなってしまいます。

打ち直しをします。

絹の残布などでカバーを作りそれを洗うよう

にお勧めします。

 

                     エリ蚕枕

柞蚕枕

 

 

 

スローファッション in 三河

2020-09-09

〜持続可能な未来を〜

スローファッション展

豊橋帆前掛けエニシングと遠州織物、古橋織布 さんとのコラボです。

9月12日(土)・13日(日)11:00〜17:00

場所:旧東海道 二川宿・商家駒屋

お話会:各日14:00〜 会場内

12日

『三河の前掛けについて』前かけエニシング 西村 和弘

『古橋織布』       遠州織物    西井 佳織理

『木綿の来た道、絹の来た道』トレビ    今泉 雅勝

13日

『絹から学ぼう!コロナと共に』

七夕まつりは絹祭り

2020-05-28

今日の様な七夕祭りがどこで起こったか定かではない、中国の古文書等にもそのような記述がないようです。ですから自由な想像をめぐらすのもたいへん面白いので、少し遊んでみましょう。

絹は中国で5千年も前から産業として生産され始めた事は以前に書きました。ここで言う絹とは地球上に生息する10万種類余の絹を作る生物の中から、繭を作る昆虫を選び、野外には蓑虫や柞蚕の様に比較的大形で主に茶褐色をした繭は数多くあるのに、桑の葉を食べる小さくて頼りなげなクワコと云う白い繭を永きに渡って改良を重ね生糸を採る事に成功し、今日で云う家蚕繭から採る糸を言います。その頃、世界各地で人々はその地域にある各種野蚕繭から糸を紡いで利用してきた様です。生糸とは蚕が吐いた一本の糸を何本か寄合わせた物(当時の繭からは300m前後、現在の繭からは1500m前後)。生糸を精錬すると、紡ぎ糸に比べ格段に艶が有り、薄く、しなやかで、当時としては何物にも比較出来ないほど美しかったと思われます。それに比べて野蚕の繭から糸を採るのは、繭からスルスルと糸が出て来なく、苦労するばかりで生産が上がりません。今日でも同様です。そのような事から桑コに着目したのは当然と言えるでしょう。この成功は今日の原子力以上の意味を持っていると言っても過言ではありません。

こんなに美しい物を権力者が看過する訳が有りません。殷や周のように強大な権力が確立されて来ると、絹の生産、販売等を手中に収め莫大な利益を得られる様になり、権力の基盤も安定して来ます。その頃には天文学も発達し星座にまつわる色々な話が一般に語られるようになっていたと思われます。

春の桑の葉を食べて育った蚕が6月上旬繭を作り、生繭を乾繭にして、生糸を採り、織る人に手渡す頃が丁度、天の川がきれいに見える頃になります。牽牛(養蚕夫)から織女に渡る時です。

絹づくりのめやすは七月七日が農から工へ移行する時とし、天子は美しい織物が出来る様に天の川に祈り、庶民は絹増産のお祭をしました。繭の生産は夏コ、秋コ、と休みなく早朝から深夜まで寝る暇が無いほど過酷な作業が続くので、その中間の梅雨の晴れ間の様な骨休みの一日なのです。今日で言えば、村興しの殖産興業祭りでしょうか。七夕まつりを星祭りにしたのは、美しい織物を織るには少し湿度のある人のざわつかない静かな夜です。静寂で星の降る様な夜には透ける様なしなやかな物が織れると信じられていたのでしょう。今でもインドでは、織り上がる迄家族とも会わず、一気に織ります。

中国は古代からどの王朝も絹の生産方法を秘密にしてきましたので七夕まつりが絹の振興祭りであれば、その本旨は物に記したりしなかったと思われるので、本当の事が伝わっていないではないでしょうか。3,000年ものながきに渡って絹の製法の秘密を守り通して、その独占的利益で栄華を築いて来た執念には敬服するばかりです。

今日でも中国は最古の古代繭をえんえんと毎年採卵して、種の基を保持していますが、世界の学術会議であろうが何であろうが、決して公開しません。日本でも蚕種を保存するセンターが小淵沢に有りますが、明治以降のもので、中国に比べればほんの僅かなものに過ぎません。5,000年の歴史の中で日本が中国に勝るのは明治前期より以降100年にすぎず、昨今では質量ともに比較になりません、絹及び蚕がレアメタルの様に先端産業に不可欠な物になる時代が来ないとも限りません。

七夕まつりには誰も語らないもう一つ大事な事が隠されています。

七夕には竹に短冊を吊るします。今日では色々な色の紙の短冊ですが、本来は絹紙の短冊を吊るすのです。  繭から糸を作る過程で、毛バやら屑糸等沢山でます、殆どは紬糸等に加工しますが、ほこりの様な屑を細かく切って、トロトロになる迄煮込んで漉いて紙を作ります。この紙の短冊に願い事を書いて吊るすのです。七夕まつりは紙作りの祭りでもあるのです。

絹は余す所なく使うエコ産業なのです。そのような利用方法は今日では紙への利用はほんの少しですが、パウダにして、化粧品やサプリメント、食品添加など巾広く利用されています。

紙と云う字には糸へんを書きます、糸と云う字の象形文字は三つの繭から三本の糸がよじれて上がって行く様子を表したもので、漢字が出来る時、絹を使って出来ている物は糸へんを書いたのです。ですから綿は絹綿を表し、棉は木綿綿を表します。漢字ができる頃までは紙は絹で作られていたのでしょう。

古代の七夕の短冊に色々な色の短冊が有ったかどうか知るよしもありませんが、絹は木綿と違って非常に染色性が良く、ムラにもなりにくいので、草木で染めた色とりどりの短冊が風になびいていたと思うと実に心豊かになります。

いにしえの様に絹漉紙の七夕まつりをしてみたいものです。

両社無礼講移行すると着

 

フランスは日本の絹産業の恩人

2020-04-29

ルイ王朝と絹産業

絹の製法が東ヨーロッパ(トルコ)に伝わったのは6

世紀といわれています。ローマ時代から中央アジアやヨ

ーロッパの貴族達は何とかしてシルクの製法を入手いた

いものと色々な策を廻らしていましたが、中国の歴代王

朝は蚕の卵の持ち出しや、その製法を黄の時代から3千

年のながきに渡って秘密にして来たのでした。

それは黄河周辺の漢族が絹の製法を確立して、絹をもっ

て西方から各種種子、鉄、馬などと交易し、兵にも絹の

フエルトを着せ、強大な国を作る礎になって来たからで

す。13世紀になってフランスのルイ王朝が強大になって

来ると自国で絹を作り、貴族達にふさわしい衣装を作ろ

うとリヨンに各地から、染織、織物の職人(ギルド)達

を集め、中国に勝る絹織物文化を作り上げて行くのです。

ヨーロッパに微粒子病が発生

繁栄を極めたフランスの絹産業は1850年〜60年にか

けてフランスを中心にヨーロッパ全土に、蚕の幼虫期(

2〜3齢期)に小胞子虫が蚕に寄生し、蚕が死んでしま

う微粒子病が大発生し、ヨーロッパの絹産業が壊滅的ダ

メージを受けてしまいました。

そこで新たな蚕種製造が渋沢栄一らによって確立された

日本から、病気に冒されていない蚕の卵を大量に輸入し

ましたが微粒子病は終息せず、日本の蚕種業を潤しまし

たが,最新動力製糸工場なども稼働出来なくなってしま

いました。

その様子を幕末に幕府会計方としてパリ万博に派遣され

た渋沢栄一はつぶさに見聞し、人脈も作って来ました。

パスツール、微粒子病発見

フランスのワクチンなどの医療法を開発した細菌学者

ルイ・パスツール(18221895)が微粒子病を発見しま

したがフランスの養蚕業は再興せず、アヘン戦争で混乱

し、イギリスに支配された中国から輸入する事も出来ず、

絹生産の勢いが高まる日本が注目される事になり、フラ

ンスは自国生産をあきらめ、後進国を指導して、安定的

に輸入する政策に転換して行くのです。

富岡製糸所とパリ万博

1867年のパリ万博には幕府と薩摩藩、佐賀藩などが参

加し、「四季花鳥の図」等の絹織物や日本の着物姿の女性

の茶の湯接待などがジャポニズムブームを巻き起こしま

した。参加していた渋沢栄一はフランスの製糸工場など

も見学していましたが、1868年大政奉還の報を聞くと急

遽帰朝し、政府高官となってフランスの最新製糸工場の

誘致を画策し、伊藤博文の命により明治5年にフランス

の製糸技術者ブリューナを招聘して富岡製糸場を開設し、

日本の近代絹産業の礎を築きました。

フランスへ留学生派遣

富岡製糸場を通して日仏の需要供給の流れは結ばれ、

富岡で生産された絹糸はフランスのリヨンに運ばれて行

き、市井の農家の絹糸はアメリカ等に輸出されました。

日本ではより付加価値の高い絹織物を作るため、1872

に京都の西陣を中心に、養蚕、紡績、図案、染色、織物

など各人目的を持って第1陣を、翌年第2陣、1877年に

は第3陣の留学生を派遣し、フランスも彼等を暖かく迎

い入れ、惜しみなくその技術を教えてくれたようです。

この成果が日本の絹の世界的評価に繋がってゆくのです。

この留学生達が中心となって開かれた絹の専門学校が今

日の京都工芸繊維大学、東京農工大学、信州大学、群馬

大学です。

農商務省原蚕種製造所(後の蚕業試験場)設立

江戸時代までは絹の輸入国であった日本は、明治にな

って飛躍的発展を遂げ、主たる輸出品に成長しつつあり

ましたが、各地の蚕種がバラバラで糸質もフランスやイ

タリア、中国にも及ばないものでした。

そこで政府は全国の蚕種、元蚕種の改良統一を図るため、

1911年(明治44年)に農務省原蚕種製造所(後の蚕糸

試験場)を東京、京都、群馬、福島に開き、主に蚕種の

製造と品種の改良行ない、その結果良質な日本の生糸が

生産され始めました。その後この試験場は沖縄まで全国

各地設置され、この年蚕糸業法も制定して、繭の糸以外

の加工を禁じて、日本は絹糸生産に邁進しました。

つかぬ間の繭生産世界一

こうした官民挙げての努力で、1928年(昭和3年)に

は全国221万戸の農家で約40t強の繭生産を果たし、

世界一の繭生産国になり、絹が当時の日本の輸出総額の

40%強となりました。

ところが、この利益で軍備が拡張され、絹の師匠である

中国に侵攻し、顧客である欧米列強と戦う第二次世界大

戦に突き進んで行ったのです。

戦中、桑田は荒廃し,戦後繭生産は復興の兆しを見せま

したが、新たな化学繊維の登場で、今日では100 t位と

なり、大量輸入国となってしまいました。

シルクロードが拓ける時代背景

2020-04-29

シルクロードの命名

今日語られている「シルクロード」と云う呼び名は19

世紀後半ドイツのリヒトホーヘンが「ザイデン・シュト

ラーセン」と呼称し。その弟子で4回にわたって中央ア

ジアを探索し、桜蘭の遺跡などを発見したスエーデンの

ヘデインがその名を書物に書いて一般化してきました。

その他にも敦煌千仏洞の古写本を発見したイギリスのス

タインや日本の大谷探検隊などがシルクロードの夢をか

き立てました。

中央アジアの民族移動

中国の周の時代(紀元前8世紀頃)になると牧畜、農

業などが発達し、人口が増加して各邑が国となり互いに

覇を競い、紀元前6世紀には騎馬遊牧民で金属器文化を

持ったスキタイ、紀元前4世紀には陰山山脈方面に匈奴、

天山山脈方面に烏孫、タリム盆地周辺では月氏等が強大

になり始め、西方ではアレキサンダー大王の東方遠征が

あり、春秋戦国の時代を迎える事になりますが、多くの

民が戦乱を避け、各地に移動を余儀なくされました。日

本にも多くの人々が押し寄せ、縄文人を駆逐、同化しな

がら、農耕文化の弥生時代を招来した様に、漢族の膨張

のみならず、匈奴が月氏を西方に追いやった事で大きな

民族移動の波が起こってきました。月氏は中央アジアに

逃れ、「玉を東に絹を西に」に運ぶ交易を生業にする大月

氏となって行きます。

交易の必然性

戦いに勝って生き残る為には優れた新たな兵器を入手

する必要と相手を調略して攻め込まれない様にしなけれ

ばなりません。それは西方のヒッタイトが作った優れた

鉄(製鉄技術)と馬(汗血馬)が是非とも必要でした。

外交物資では絹織物、真綿、紙が特に有効で、屑真綿か

ら作られる絹紙(草木紙は漢代になってから発明、それ

以前は木簡綴り)は漢字が整備されて勅命や思想を正確

に通達する重様な戦略物資でした。真綿は兵の防寒と防

矢性に優れ、軽く運動性に富み、抗菌性など兵の健康維

持に役立ち、馬の負担を軽減し、鉄が攻めの武器なら絹

は守りの武器として極めて有効な物資でした。

西からは小麦、大豆、瓜、フエルト等、生活文化を支え

る重要な資源がもたらされ、シルクロードはこれらをよ

り安全に運ぶ道として拓かれる必然があったのです。

ルートの色々

一口にシルクロードと言っても編の目の様に色々なル

ートが出来、大きなオアシス都市で合流し、また分かれ

西方に到るのです。大別して順次4本の道が出来ました。

初めに南ルート長安→敦煌→タクマラカン砂漠南側と

混論山脈の裾のホータンを通り→オアシス都市カシュガ

ル→サマルカンド→アレッポ→ローマの道が発達して来

たようです。

次に中央ルート長安→敦煌→タクマラカン砂漠北側、

天山山脈の裾のトルファン→クチャを通りカシュガル→

サマルカンド。

北ルート長安→敦煌→ビシュバクリから北はゴビ砂漠、

アルタイ山脈の北裾をぬけてタラス→サマルカンドに到

る道ですが、古から重なる民族移動でかなり踏み込まれ

て来た道でもあります。

海ルートは「海のシルクロード」と呼ばれ、陸路が乾き

や盗賊などの危険があまりに多いので漢の武帝は杭州→

広州→インドシナ半島→インド各地で交易を繰り返しエ

ジプトのアレキサンドリアに到る海路を拓きました。

張騫、法顕の西方探索

漢の武帝は広域な領土を支配する様になると兵の駐屯、

迅速な情報の伝達の必要性と文物の交流で大きな利益を

もたらすシルクロードをより安全で効率よいものに整備

する必要にせまられてきました。西域の事情を知るため

「張騫」を交易の民となった大月氏に派遣しました。

相次ぐ戦乱で民心は従来の儒教的道徳律では救われない

と新たに伝わって来た仏教に傾倒して行きますが、その

形骸は伝わって来たもののインドからの高僧は中央アジ

アの中継貿易で栄えるバーミアン周辺に留まり東の果て

にまで赴いてくれませんでした。5世紀の初め「仏法と

西方の事情」を調べるため、下級官吏の「法顕」が

難の道を辿り陸路でインドに到り、帰路は海路で帰朝し

「仏国記」を著し西方の事情を明らかにしました。

玄奘の仏法の道

4世紀末中央アジアの鳩摩羅什が仏典を漢訳し、6世

紀にはインドの達磨が中国に渡りましたが、7世紀初頭

になっても仏法の教義が脆弱であった為、三蔵法師が往

復陸路でインドまで赴き、教典を持ち帰り、「大唐西域記

」を著しました。その後「義浄」が往復海路でと渡印し

「南海寄帰内法伝」を書いています。

日本では遣唐使の「空海」などが大量の仏典などを持ち

帰り、8世紀のはじめに「鑑真」が戒律を伝えました。

絹の考古学(その5)

2020-04-27

絹と紙

紙の発明前

現在の紙は木材等のパルプから作られていますが、最

古の紙(紙らしき物)は紀元前3000位前の古代エジプ

ト王朝でパピルス(カヤツリ草の一種)から作られたと

いわれています。ヨーロッパでは紀元前2500年位前に

は羊皮紙が作られていたようです。

同じ頃、東北中国にも南部から養蚕技術が伝わって来る

と、繭から糸を採った残糸で敷物や風呂敷の様な物が作

られたと云われています。

また、紙とはいわれませんが、南太平洋の島々(トンガ、

サモア等)で現在でも作られている「タパ」といわれる

腰飾や敷物、壁材に使うクロスがあります。

それは木の皮を剥いで叩いて延ばし、ベニヤ板の様に、

たて繊維とよこ繊維を相互にタロイモなどの糊で2〜3

枚は貼り合わせ、手描きや拓本で模様を描いた物です。

これも紙に発展する過程の物ではないかと思われます。

いずれにしても人々が邑をなし、権力者が生まれ、生

活を律する神事や、王の命令などを正しく伝える為の「

文字」が作られなければ、紙はあまり必要に迫られる物

ではなかったのではないでしょうか。

私が文字を持たない石器時代さながらの南太平洋の島

(マレクラ島)の人々と生活した時、紙には誰も興味を

示しませんでした。

日本でもつい最近まで木を紙の様に薄くした「うす板」

が肉などの食料品を包むのに使われ、魚屋などではそれ

に品名値段などを書いて商いをするのが普通でした。簡

単な覚え書き程度のものはなにも紙でなくても、木簡で

もよかったのです。奈良時代までは木簡も多く使われ

ていたようです。

紙の発明紙はなぜ糸ヘンか

紀元前3000年頃の中国の黄河文明当時の絹には撚り

のかかった細い糸は作られておらず、権力者も庶民も手

紬の太い糸で専ら寒さから身を守る物づくりが中心でし

た。それから千数百年を経て殷の時代になると、占いな

どの象形文字が亀の甲に刻される様になり、文字が急速

に発達して来ます。それは広範囲に権力が及び、王命を

正確に伝達する手段として、また賢人の言葉を広く流布

し、国の道徳律を統一する為にも紙は必要欠くべからざ

る物になって行くのです。

権力者の為に均一な汚れのない上質な糸を作ればそれだ

け屑糸が出ます。また使い古しの真綿(絮)なども出て

来ます。それらをまとめて熱い灰汁(あく)湯で煮熟し、水にさ

らして不純物を除き、水の中でほぐし、叩いて均一にし、

干して、「絲絮片(いとじょへん)」と云う一種の不織布が「紙」と云われ

ようになりました。それはタパのように厚手の物で、敷

物などに使われていました。

ある時、その敷物を作った後の水中に浮遊している細か

な糸片を漉いて干した薄物も紙と云っていたようです。

これが紙の始まりです。

その紙は軽くて持ち運びし易く、多くの情報を正確に記

載でき、紙と文字は車の両輪の様に発達し、権力がその

上に乗って強大な王朝が形成されて行く基になって行く

のです。

周王朝の中頃には撚りのかかった薄絹も織られる様にな

り薄絹生地に沙汰書を書く様になりましたが、漢の時代

になると周辺諸族の活動が活発になり、彼らに力を示し、

慰撫(いぶ)する為にも上等な真綿(緜)を使って紙を作る事が

求められて来ました。それは「緜糸」と云われる最上級

の紙となって行きます。

紙は絹から作られたので、糸ヘンを書くのです。

さらなる紙の発展

中国の漢の時代になると樹皮や草木から紙が作られる

様になりました。この大発見が今日の紙です。

シルクロードが開けて中国から紙がヨーロッパ、エジプ

ト方面に行き渡ると、長き歴史の羊皮紙もパピルスも次

第に姿を消して行きました。

技術革新は今も昔も熾烈なのです。

絹紙の現在の評価

亀甲文字の大家に絹生地に筆で文字を書いて頂いた事

がありますが、書家はなにも言わずに作品を納めて下さ

いました。しばらく後、絹100%ではありませんでした

が、絹紙を作った会社があり、それを著名なひら仮名書

家に平安時代の様なひら仮名をしたためて頂きました所、

「この紙は筆がすすみ難い」と言われました。

絹紙は筆のすすみが和紙に近いと思っていましたが、専

門家には和紙の方がよいと云う結果になりました。

絹紙は漢字には良く、しなやかなひら仮名には不向きな

のでしょうか。紙は古代からの情報化時代を担って来ま

したが、新たな電子機器による情報化時代にどの様な役

割を果たして行くのでしょうか。

絹の考古学入門(その4)

2020-04-27

殉死とは

王や后妃、諸侯、諸侯婦人などの権力者が亡くなった

とき、寵臣や側近、寵妾(ちょうしょう)愛婢(あいひ)、多くの奴婢達が王の

墳墓の陪葬坑(ばいそうこう)に自主的又は命令で葬られる事を言うので

す。が、王が亡くなってから幾多の儀式などを経て壮大

な墳墓に葬られる迄に長い時間がかかると思われます。

寵臣達はそれら諸般を一切すませて自ら陪葬坑に横たわ

るのか、他所で静かに自害して葬ってもらうのか歴史は

語ってくれません。殉死を命じられた側近の兵や員数合

わせの奴婢奴隷達の気持ちはいかばかりか心が痛みます。

殉死の風習が起こって来たのは中国の東周の時代以降

の春秋戦国の時代から秦に至るまでの紀元前700〜約7

00年間のようです。日本でも規模や形式は違っても、明

治の時代になっても殉死と云う風習は残っていました。

時代背景

中国山東省の東周期とは青銅器から鉄器に移り変って

行き、鉄と云う新しい文化に触発され、諸国の王が覇を

競う戦国時代への移行期でありました。

南から伝わって来た絹の生産が北東中国でも盛んになっ

て来た時代で、絹はまだまだ未精練や無撚糸の紬の様な

素朴な織物が主であったと思われます。この時期、絹の

製糸技術(特に撚りをかけた細い糸がつくられ始める)

が急速に発展しはじめ、絹は権力者にとって自ら装って

権力を誇示する絶好の品であるばかりか、周辺諸王との

外交の重要品目として重視され始め、家臣に下賜する効

果的品でもありました。後世絹は臣下への給与の一部に

なって行くのです。

出土品から推測

当時の出土品に、銅壺に鋳出された「躬桑礼(きゅうそうれい)」の図柄

の物があります。それはその年最初の(はる)(こ)を飼いはじめ

る為の桑摘み儀式の図柄で、后妃、諸侯婦人も蚕母(宮

中で養蚕に携わる女性)や蚕婦(諸侯の元で養蚕〜織布

に携わる女性)達と一緒に桑摘みをしている様子を現わ

しものです。これは宮廷や諸侯の間で養蚕が盛んに行な

われていた事を物語っています。

そんな時代の古墳から蚕形玉髄(ぎょくずい)が発掘されました。

これは蚕母、蚕婦達の養蚕、製糸、織布技術が向上する

ように権力者が高価な翡翠で作らせた蚕型の装飾品で、

常に腰から両方の太もも付近に紐で向かい合わせの対で

吊下げていたと思われます。

彼女達は常にこれを履き、国の盛衰を賭けて細い糸作り

と薄くてよりしなやかな織物を作る事を求められていた

のでしょう。艶々して、薄く、しなやかな絹織物は、国

威示す象徴的な物になって来ていたのです。

蚕母、蚕婦の殉死

王、が亡くなると、ここで働いていた大勢の中から15

才〜30才くらいの若い女性の幾人かが、命により蚕形玉

髄(玉蚕)を佩き、王の墳墓の陪葬坑に葬られたのです。

いずれの玉蚕も出土部位の骨格の(もも)から足の傍で発見さ

れています。王の墓からは絹織物、絹糸束、錦など残り

にくい絹製品が沢山出土していますが、残念ながら陪葬

坑には骨と玉蚕しか残されていません、坑の作り方によ

って絹は早く分解して残りにくいので、彼女達の装束は

どのようであったか分かりません。何も衣類の痕跡が残

っていないとしたら、絹を着せてもらってあの世に赴い

たと思われます。彼女達はどんな風に葬送されたのでし

ょう、哀しむべき事と云う他はありません。

殉死の背景考察

この墳墓は紀元前400年頃のものではないかと推測さ

ます。これから後、絹の利用範囲は寒さを防ぐばかりで

なく鉄の武器((やじり)など)ら身を守る事が出来る有効な

機能が認識されはじめ、諸王は競って絹の増産に励むよ

うになりました。特に北東中国では北方異民族が西進、

南下を繰り返すようになり、その防備に異民族に負けな

い強い大兵団を組織する必要に迫られていました。増産

される(じょ)(絹綿)を兵に支給し防寒防弾着をつくらせた

のです。絮衣は軽く、兵の戦闘能力を増大させたばかり

か、馬への負担を減らし、絹の抗菌性等の機能性により

外傷ケアに効果があり、皮膚疾患の予防にもなって『絹

は力』となってゆくのです。

村役人は各戸を回って養蚕を薦め、(めん)(高級な真綿)

絮(低級な真綿)と織物を厳しく取り立てる様になりま

した。こうして絹は鉄と共に国を富ませ強くする、表裏

一体の新しい産業として歴史に登場して来るのです。

富国強兵

日本でも大化の改新後の7世紀中頃、朝鮮の白村江の

戦いに出兵した兵士に緜甲(真綿を固く加工したもの)

と絮衣を着せたといわれています。

昭和の初期には絹が日本の輸出総額の45%前後となり、

富国強兵の国策を支えたのでした。

絹の考古学入門(その3)

2020-04-27

銅鐸の鋳画像の推敲

銅鐸

銅鐸は弥生時代の青銅器の一種、形は釣り鐘状、上方

に半円形の(ちゅう)、両方に扁平な(ひれ)状の突起があり、厚手の

物は20㎝、薄手の物は150㎝と大きさは様々で、近畿

地方から多く出土していて、祭祀の為に制作された物と

考えられています。

その側面の多くは狩猟、漁労、農耕の三つが表現されて

います。しかし上記の1、2図に関しては諸説がありま

すので、諸説をご紹介しながら色々推考してみたいと思

います。いずれも活動の刹那を捕らえた表現が多く、絵

画と言うにはあまりにも抽象的で、叙事詩を語る絵文字

のようにも見えます。想像をかき立てられます。

稲の虫払いの道具説

弥生時代近畿以南はウンカの発生が多く、麻柄(あさがら)で作っ

たカセでイナゴをかせぎ落とす神事をしたと云われてい

ます。虫送りの行列が村はずれまで行き、銅鐸の多くが

村境に埋められている事がその証ではないかと云われる

所以です。

コンパス説

高床式住居など複雑な建築物が出現し、正確な円や直

角を描く事が必要になり、カセの横木を垂直に立て円を

描いたと云う説、上図3がそれを示唆しています。

漁具説

上図2には魚が描かれています。手に持つ道具は魚を

採る延縄(はえなわ)を巻く糸巻きで、まるい点線は魚を入れる編袋

ではないかと云う説。但し数多く出土した銅鐸の中で魚

が描かれている物は他に有りません。

水平器説

人物像が手に持つ工字形器具は水田をならすとき使う

水平器ではないかという説。

糸巻を取る「かせ」説

この時代身体を保護する織物は食と同じく大変重要な

日常作業であったと思われます。従来のどの植物繊維か

ら作る物より、軽くて柔らかく、温かい絹と云う新繊維

が普及し始め、春繭が収穫され、糸を紬ぎ、機織りの準

備が整う天の川が綺麗に見える頃、池や川の水の畔(魚

などの恵みに感謝)に高床の棚小屋を作り、そこに女性

(棚機つ(め))が心霊を受けて(はた)(お)った神事を「七夕ま

つり」として絹の普及増産に努めた事などを考えると、

銅鐸の1、2の表現は、糸を紬いでその糸を桶にとり、

そこから手に持った道具、即ち「カセ」に巻き取る姿で

はないだろうか、図4からも推測出来るところから、こ

の銅鐸の表現は「カセ」という説が有力になりました。

疑問 ? ?

図4の女性は、立て膝をして、「カセ」を胸元に持っ

ていて、片方の手は自分の膝上で桶からの糸を支えてい

ます。ところが、銅鐸の表現1は「カセ」を自分の目線

より少し高めに持ち上げて、片手は空を掴んでいます。

図2も類似しています。此れ等の図柄が糸を巻き取る「

カセ」と断言するにはやや躊躇します。

当時中国から度量衡のシステムが移入され、「カセ」は

糸を「カセ」に取る道具であり、何回巻くと1反分の糸

である、と云うふうに糸の量を測る道具として大切にさ

れたのではないだろうか。この長さの基本は家を建てる

時も、魚を獲る延縄を作る時も使われたではないでしょ

うか。銅鐸の奔放な図柄は糸を巻き取る道具としてばか

りでなく、尺度の基本として活躍している姿ではないだ

ろうか。

(かせ)

銅鐸が作られていた時代、糸を「カセ」に巻きとリ(かせ)

(カセからはずした糸の束)を作る事を「カセグ」とい

った様です。沢山綛を作れば当然豊かになります。いつ

の間にかお金を稼ぐ事をいう様になりました。

 

 

 

 

 

 

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