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暑中お見舞い!
まだまだ梅雨のまっただ中ですが・・・
無事七夕まつりも終え、ご要望の多かったシルクインナーをご紹介いたします。
サイズM/L/LL、 カラー5色、 全国に発送可。
写真の他に五分アンダーパンツ¥4,900,七分アンダーパンツ¥6,900
深ばきショーツ¥3,300などもございます。
キャミソール¥4,900,
ランニング型タンクトップ¥5,900
二分袖スリーマー¥6,900
20’琉球藍の生葉染め
人数は半分の6名です。
7月4日(土)13:30~16:00
5階染色室
参加費¥3,500(野蚕入りsilkスカーフは選んで別料金)

煮染めのパープル
七夕まつり(お客様感謝祭)&貝紫ツアー報告会
於:TEORIYAビル4階 11:00~19:00
七夕まつり:絹の短冊(HP,絹の話、ひとりごと参照)に願いを書き祈りましょう!
自粛中製作しています間に『武将マスク』10人の武将をイメージして作りました。お楽しみに!
三河湾佐久島・貝紫ツアー開催!
コロナ禍の影響で延期していました、当会の貝紫の研修を下記のように日程を決め密集を
少しだけでも避け6/25(木)〜26(金)にいたしました。
オプションでもう1泊を南知多を周り(アカニシでタコを捕っていた映像発見!)
温泉に入りたいと思っております。
興味の有る方、お誘い合わせご参加下さい。現地参加歓迎!
6/25(木)
吉良一色渡船場:13:40発 約25分で佐久島着
クラインガルテンにて貝を割り、夕方まで実演
翌日6/26(金)午前中も作業!紫外線にさらす!
使った貝をバーベキュウの昼食にします。
That’s Welcome News No.8
こんな七夕祭り風景伝えておきたい
70年前の三河地方の七夕
里芋の葉の朝露集め
七夕の日(旧暦)の朝、子供たちは夜明けとともに起き、日が高くなって露が消えてしまわないうちに里芋の葉に玉の様に転がっている朝露を集める事から始まります。
この時期、里芋の葉は子供の胸丈くらいの高さで、陣笠を逆さにした様に空を向いて開いています。露どき、にわか雨などに遭うと子供達はこれを頭にかぶり、家路に急いだものです。
里芋の葉の表は微細な繊毛で覆われているので、露は小さな水晶玉のよう輝きながら丸くコロコロと転がっています。ちょっと身体が葉に当ると葉が揺れて葉の切れ目から水玉が転げ落ちてしまい、手元の皿にうまく集めるのがなかなか難しのです。
毛筆の練習
朝食後、天の川から頂いた聖なる水で墨をすり、筆で短冊に「天の川」や思いついた色々な短い詩歌等を書きます。何枚も書かねばならないので、子供にはだいぶきつい作業です。
親達は短冊のこよりを作りながら、脇からそれを覗いて、「だいぶ字は上手になったけど、文章が拙い」などと目を細めています。
竹取
午後から近所のお寺の竹薮に真竹を採りに行き、持ち帰って家の庭に竹を寝かせ、一家総掛かりで短冊を吊るします。賑わったような晴れがましい様なひと時です。
一瞬の静寂
立てられた竹は5色の短冊が風にゆれ、微かに擦れる笹の葉の調べが、竹を立てる前と立てた後の涼やかさの違いを、幼少な子供の肌にもしみ込む様に奏でてくれました。
お供えと天の川
お供えは母や祖母が中心になって小さな文机に初なりの「黄な瓜」などを供えます。
夕食後ジーッと眺める天の川は何も語らず、ただただ果てしのない静寂を感ずるひと時でした。
翌日、お供えの黄な瓜に塩をかけてほおばるのが,子供にとっては最大の楽しみでした。家族が多く一切れがやっとで、口を小さく開いて何口にも分けて、こんな日が明日も続けばよいが、と味わいました。
七夕の海流し
短冊に飾られた竹は枝を払われ、竹は後日何かに使うため、物置にしまわれて、笹と短冊が荒縄で縛られ、子供達が汐どきを見計らって海に流します。
暑い盛りですが、この日は海や川では泳ぎません。あちこちの家から流された笹束が泳いでいる人に絡み付いて来て、とても気持ちが悪いのです。
絹の中綿枕や野蚕毛布が人気です
絹枕や毛布は絹の必須アミノ酸のシスチンやメチオニンとセリンの働きで増え過ぎると老化や病気を起こす活性酸素を中和し、幸せホルモン(マッサージ等で分泌されるオキシトシン)が分泌されて気持ち良い快眠が得られます。肩こり、筋肉疲労などにも効果的です。
七夕まつりは絹祭り
今日の様な七夕祭りがどこで起こったか定かではない、中国の古文書等にもそのような記述がないようです。ですから自由な想像をめぐらすのもたいへん面白いので、少し遊んでみましょう。
絹は中国で5千年も前から産業として生産され始めた事は以前に書きました。ここで言う絹とは地球上に生息する10万種類余の絹を作る生物の中から、繭を作る昆虫を選び、野外には蓑虫や柞蚕の様に比較的大形で主に茶褐色をした繭は数多くあるのに、桑の葉を食べる小さくて頼りなげなクワコと云う白い繭を永きに渡って改良を重ね生糸を採る事に成功し、今日で云う家蚕繭から採る糸を言います。その頃、世界各地で人々はその地域にある各種野蚕繭から糸を紡いで利用してきた様です。生糸とは蚕が吐いた一本の糸を何本か寄合わせた物(当時の繭からは300m前後、現在の繭からは1500m前後)。生糸を精錬すると、紡ぎ糸に比べ格段に艶が有り、薄く、しなやかで、当時としては何物にも比較出来ないほど美しかったと思われます。それに比べて野蚕の繭から糸を採るのは、繭からスルスルと糸が出て来なく、苦労するばかりで生産が上がりません。今日でも同様です。そのような事から桑コに着目したのは当然と言えるでしょう。この成功は今日の原子力以上の意味を持っていると言っても過言ではありません。
こんなに美しい物を権力者が看過する訳が有りません。殷や周のように強大な権力が確立されて来ると、絹の生産、販売等を手中に収め莫大な利益を得られる様になり、権力の基盤も安定して来ます。その頃には天文学も発達し星座にまつわる色々な話が一般に語られるようになっていたと思われます。
春の桑の葉を食べて育った蚕が6月上旬繭を作り、生繭を乾繭にして、生糸を採り、織る人に手渡す頃が丁度、天の川がきれいに見える頃になります。牽牛(養蚕夫)から織女に渡る時です。
絹づくりのめやすは七月七日が農から工へ移行する時とし、天子は美しい織物が出来る様に天の川に祈り、庶民は絹増産のお祭をしました。繭の生産は夏コ、秋コ、と休みなく早朝から深夜まで寝る暇が無いほど過酷な作業が続くので、その中間の梅雨の晴れ間の様な骨休みの一日なのです。今日で言えば、村興しの殖産興業祭りでしょうか。七夕まつりを星祭りにしたのは、美しい織物を織るには少し湿度のある人のざわつかない静かな夜です。静寂で星の降る様な夜には透ける様なしなやかな物が織れると信じられていたのでしょう。今でもインドでは、織り上がる迄家族とも会わず、一気に織ります。
中国は古代からどの王朝も絹の生産方法を秘密にしてきましたので七夕まつりが絹の振興祭りであれば、その本旨は物に記したりしなかったと思われるので、本当の事が伝わっていないではないでしょうか。3,000年ものながきに渡って絹の製法の秘密を守り通して、その独占的利益で栄華を築いて来た執念には敬服するばかりです。
今日でも中国は最古の古代繭をえんえんと毎年採卵して、種の基を保持していますが、世界の学術会議であろうが何であろうが、決して公開しません。日本でも蚕種を保存するセンターが小淵沢に有りますが、明治以降のもので、中国に比べればほんの僅かなものに過ぎません。絹5,000年の歴史の中で日本が中国に勝るのは明治前期より以降100年にすぎず、昨今では質量ともに比較になりません、絹及び蚕がレアメタルの様に先端産業に不可欠な物になる時代が来ないとも限りません。
七夕まつりには誰も語らないもう一つ大事な事が隠されています。
七夕には竹に短冊を吊るします。今日では色々な色の紙の短冊ですが、本来は絹紙の短冊を吊るすのです。 繭から糸を作る過程で、毛バやら屑糸等沢山でます、殆どは紬糸等に加工しますが、ほこりの様な屑を細かく切って、トロトロになる迄煮込んで漉いて紙を作ります。この紙の短冊に願い事を書いて吊るすのです。七夕まつりは紙作りの祭りでもあるのです。
絹は余す所なく使うエコ産業なのです。そのような利用方法は今日では紙への利用はほんの少しですが、パウダにして、化粧品やサプリメント、食品添加など巾広く利用されています。
紙と云う字には糸へんを書きます、糸と云う字の象形文字は三つの繭から三本の糸がよじれて上がって行く様子を表したもので、漢字が出来る時、絹を使って出来ている物は糸へんを書いたのです。ですから綿は絹綿を表し、棉は木綿綿を表します。漢字ができる頃までは紙は絹で作られていたのでしょう。
古代の七夕の短冊に色々な色の短冊が有ったかどうか知るよしもありませんが、絹は木綿と違って非常に染色性が良く、ムラにもなりにくいので、草木で染めた色とりどりの短冊が風になびいていたと思うと実に心豊かになります。
いにしえの様に絹漉紙の七夕まつりをしてみたいものです。
アララギに掲載中今泉の絹の話10年目
只今115号まできました。ご要望あればバックナンバーを送料のみ(5冊まで入り¥180)でお送りいたします。
お薦め:
NO.8 絹と蒙古襲来 ・NO.21 猿と天蚕
NO.10 現代日本人と絹ー1 ・ NO.22 現代日本人と絹ー2,
NO.16 絹と水虫 ・NO.17 絹と切り傷
NO.24、25、26 絹の機能性その1〜3
癒しグッズ
コロナ疲れのストレスを緩和してくれるアイテムをご紹介します。
定番の柞蚕のシーツがメッシュ織りになりました。お家でゆったり過ごす時のブランケットに最適です。
温度・湿度の変化が激しいシーズンにいつも心地よく寄り添います。静菌・消臭効果も嬉しいです。
特別価格¥12,000→¥10,000
絹の綿(真綿のように繊維を揃えていない)を入れた、抱き枕です。
タイシルクでマンゴーの形にしてみました
中綿は¥5,800、自由な時間のある今、ご自分で作るのもgoodです。
ミニ展示会・タッサのマスク
タッサーシルク(野蚕絹)マスク
タッサーシルクはヤママユガ科の野蚕絹、一般の家蚕絹より糸が太く多孔質
アミノ酸構成が異なり抗菌性、防臭性、放湿性等の機能性に優れています。
洗濯 : 水洗い(30℃以下)何回でも使用可
フランスは日本の絹産業の恩人
ルイ王朝と絹産業
絹の製法が東ヨーロッパ(トルコ)に伝わったのは6
世紀といわれています。ローマ時代から中央アジアやヨ
ーロッパの貴族達は何とかしてシルクの製法を入手いた
いものと色々な策を廻らしていましたが、中国の歴代王
朝は蚕の卵の持ち出しや、その製法を黄の時代から3千
年のながきに渡って秘密にして来たのでした。
それは黄河周辺の漢族が絹の製法を確立して、絹をもっ
て西方から各種種子、鉄、馬などと交易し、兵にも絹の
フエルトを着せ、強大な国を作る礎になって来たからで
す。13世紀になってフランスのルイ王朝が強大になって
来ると自国で絹を作り、貴族達にふさわしい衣装を作ろ
うとリヨンに各地から、染織、織物の職人(ギルド)達
を集め、中国に勝る絹織物文化を作り上げて行くのです。
ヨーロッパに微粒子病が発生
繁栄を極めたフランスの絹産業は1850年〜60年にか
けてフランスを中心にヨーロッパ全土に、蚕の幼虫期(
2〜3齢期)に小胞子虫が蚕に寄生し、蚕が死んでしま
う微粒子病が大発生し、ヨーロッパの絹産業が壊滅的ダ
メージを受けてしまいました。
そこで新たな蚕種製造が渋沢栄一らによって確立された
日本から、病気に冒されていない蚕の卵を大量に輸入し
ましたが微粒子病は終息せず、日本の蚕種業を潤しまし
たが,最新動力製糸工場なども稼働出来なくなってしま
いました。
その様子を幕末に幕府会計方としてパリ万博に派遣され
た渋沢栄一はつぶさに見聞し、人脈も作って来ました。
パスツール、微粒子病発見
フランスのワクチンなどの医療法を開発した細菌学者
ルイ・パスツール(1822〜1895)が微粒子病を発見しま
したがフランスの養蚕業は再興せず、アヘン戦争で混乱
し、イギリスに支配された中国から輸入する事も出来ず、
絹生産の勢いが高まる日本が注目される事になり、フラ
ンスは自国生産をあきらめ、後進国を指導して、安定的
に輸入する政策に転換して行くのです。
富岡製糸所とパリ万博
1867年のパリ万博には幕府と薩摩藩、佐賀藩などが参
加し、「四季花鳥の図」等の絹織物や日本の着物姿の女性
の茶の湯接待などがジャポニズムブームを巻き起こしま
した。参加していた渋沢栄一はフランスの製糸工場など
も見学していましたが、1868年大政奉還の報を聞くと急
遽帰朝し、政府高官となってフランスの最新製糸工場の
誘致を画策し、伊藤博文の命により明治5年にフランス
の製糸技術者ブリューナを招聘して富岡製糸場を開設し、
日本の近代絹産業の礎を築きました。
フランスへ留学生派遣
富岡製糸場を通して日仏の需要供給の流れは結ばれ、
富岡で生産された絹糸はフランスのリヨンに運ばれて行
き、市井の農家の絹糸はアメリカ等に輸出されました。
日本ではより付加価値の高い絹織物を作るため、1872年
に京都の西陣を中心に、養蚕、紡績、図案、染色、織物
など各人目的を持って第1陣を、翌年第2陣、1877年に
は第3陣の留学生を派遣し、フランスも彼等を暖かく迎
い入れ、惜しみなくその技術を教えてくれたようです。
この成果が日本の絹の世界的評価に繋がってゆくのです。
この留学生達が中心となって開かれた絹の専門学校が今
日の京都工芸繊維大学、東京農工大学、信州大学、群馬
大学です。
農商務省原蚕種製造所(後の蚕業試験場)設立
江戸時代までは絹の輸入国であった日本は、明治にな
って飛躍的発展を遂げ、主たる輸出品に成長しつつあり
ましたが、各地の蚕種がバラバラで糸質もフランスやイ
タリア、中国にも及ばないものでした。
そこで政府は全国の蚕種、元蚕種の改良統一を図るため、
1911年(明治44年)に農務省原蚕種製造所(後の蚕糸
試験場)を東京、京都、群馬、福島に開き、主に蚕種の
製造と品種の改良行ない、その結果良質な日本の生糸が
生産され始めました。その後この試験場は沖縄まで全国
各地設置され、この年蚕糸業法も制定して、繭の糸以外
の加工を禁じて、日本は絹糸生産に邁進しました。
つかぬ間の繭生産世界一
こうした官民挙げての努力で、1928年(昭和3年)に
は全国221万戸の農家で約40万t強の繭生産を果たし、
世界一の繭生産国になり、絹が当時の日本の輸出総額の
40%強となりました。
ところが、この利益で軍備が拡張され、絹の師匠である
中国に侵攻し、顧客である欧米列強と戦う第二次世界大
戦に突き進んで行ったのです。
戦中、桑田は荒廃し,戦後繭生産は復興の兆しを見せま
したが、新たな化学繊維の登場で、今日では100 t位と
なり、大量輸入国となってしまいました。
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