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三河湾佐久島・貝紫ツアー開催!
コロナ禍の影響で延期していました、当会の貝紫の研修を下記のように日程を決め密集を
少しだけでも避け6/25(木)〜26(金)にいたしました。
オプションでもう1泊を南知多を周り(アカニシでタコを捕っていた映像発見!)
温泉に入りたいと思っております。
興味の有る方、お誘い合わせご参加下さい。現地参加歓迎!
6/25(木)
吉良一色渡船場:13:40発 約25分で佐久島着
クラインガルテンにて貝を割り、夕方まで実演
翌日6/26(金)午前中も作業!紫外線にさらす!
使った貝をバーベキュウの昼食にします。
That’s Welcome News No.8
こんな七夕祭り風景伝えておきたい
70年前の三河地方の七夕
里芋の葉の朝露集め
七夕の日(旧暦)の朝、子供たちは夜明けとともに起き、日が高くなって露が消えてしまわないうちに里芋の葉に玉の様に転がっている朝露を集める事から始まります。
この時期、里芋の葉は子供の胸丈くらいの高さで、陣笠を逆さにした様に空を向いて開いています。露どき、にわか雨などに遭うと子供達はこれを頭にかぶり、家路に急いだものです。
里芋の葉の表は微細な繊毛で覆われているので、露は小さな水晶玉のよう輝きながら丸くコロコロと転がっています。ちょっと身体が葉に当ると葉が揺れて葉の切れ目から水玉が転げ落ちてしまい、手元の皿にうまく集めるのがなかなか難しのです。
毛筆の練習
朝食後、天の川から頂いた聖なる水で墨をすり、筆で短冊に「天の川」や思いついた色々な短い詩歌等を書きます。何枚も書かねばならないので、子供にはだいぶきつい作業です。
親達は短冊のこよりを作りながら、脇からそれを覗いて、「だいぶ字は上手になったけど、文章が拙い」などと目を細めています。
竹取
午後から近所のお寺の竹薮に真竹を採りに行き、持ち帰って家の庭に竹を寝かせ、一家総掛かりで短冊を吊るします。賑わったような晴れがましい様なひと時です。
一瞬の静寂
立てられた竹は5色の短冊が風にゆれ、微かに擦れる笹の葉の調べが、竹を立てる前と立てた後の涼やかさの違いを、幼少な子供の肌にもしみ込む様に奏でてくれました。
お供えと天の川
お供えは母や祖母が中心になって小さな文机に初なりの「黄な瓜」などを供えます。
夕食後ジーッと眺める天の川は何も語らず、ただただ果てしのない静寂を感ずるひと時でした。
翌日、お供えの黄な瓜に塩をかけてほおばるのが,子供にとっては最大の楽しみでした。家族が多く一切れがやっとで、口を小さく開いて何口にも分けて、こんな日が明日も続けばよいが、と味わいました。
七夕の海流し
短冊に飾られた竹は枝を払われ、竹は後日何かに使うため、物置にしまわれて、笹と短冊が荒縄で縛られ、子供達が汐どきを見計らって海に流します。
暑い盛りですが、この日は海や川では泳ぎません。あちこちの家から流された笹束が泳いでいる人に絡み付いて来て、とても気持ちが悪いのです。
絹の中綿枕や野蚕毛布が人気です
絹枕や毛布は絹の必須アミノ酸のシスチンやメチオニンとセリンの働きで増え過ぎると老化や病気を起こす活性酸素を中和し、幸せホルモン(マッサージ等で分泌されるオキシトシン)が分泌されて気持ち良い快眠が得られます。肩こり、筋肉疲労などにも効果的です。
七夕まつりは絹祭り
今日の様な七夕祭りがどこで起こったか定かではない、中国の古文書等にもそのような記述がないようです。ですから自由な想像をめぐらすのもたいへん面白いので、少し遊んでみましょう。
絹は中国で5千年も前から産業として生産され始めた事は以前に書きました。ここで言う絹とは地球上に生息する10万種類余の絹を作る生物の中から、繭を作る昆虫を選び、野外には蓑虫や柞蚕の様に比較的大形で主に茶褐色をした繭は数多くあるのに、桑の葉を食べる小さくて頼りなげなクワコと云う白い繭を永きに渡って改良を重ね生糸を採る事に成功し、今日で云う家蚕繭から採る糸を言います。その頃、世界各地で人々はその地域にある各種野蚕繭から糸を紡いで利用してきた様です。生糸とは蚕が吐いた一本の糸を何本か寄合わせた物(当時の繭からは300m前後、現在の繭からは1500m前後)。生糸を精錬すると、紡ぎ糸に比べ格段に艶が有り、薄く、しなやかで、当時としては何物にも比較出来ないほど美しかったと思われます。それに比べて野蚕の繭から糸を採るのは、繭からスルスルと糸が出て来なく、苦労するばかりで生産が上がりません。今日でも同様です。そのような事から桑コに着目したのは当然と言えるでしょう。この成功は今日の原子力以上の意味を持っていると言っても過言ではありません。
こんなに美しい物を権力者が看過する訳が有りません。殷や周のように強大な権力が確立されて来ると、絹の生産、販売等を手中に収め莫大な利益を得られる様になり、権力の基盤も安定して来ます。その頃には天文学も発達し星座にまつわる色々な話が一般に語られるようになっていたと思われます。
春の桑の葉を食べて育った蚕が6月上旬繭を作り、生繭を乾繭にして、生糸を採り、織る人に手渡す頃が丁度、天の川がきれいに見える頃になります。牽牛(養蚕夫)から織女に渡る時です。
絹づくりのめやすは七月七日が農から工へ移行する時とし、天子は美しい織物が出来る様に天の川に祈り、庶民は絹増産のお祭をしました。繭の生産は夏コ、秋コ、と休みなく早朝から深夜まで寝る暇が無いほど過酷な作業が続くので、その中間の梅雨の晴れ間の様な骨休みの一日なのです。今日で言えば、村興しの殖産興業祭りでしょうか。七夕まつりを星祭りにしたのは、美しい織物を織るには少し湿度のある人のざわつかない静かな夜です。静寂で星の降る様な夜には透ける様なしなやかな物が織れると信じられていたのでしょう。今でもインドでは、織り上がる迄家族とも会わず、一気に織ります。
中国は古代からどの王朝も絹の生産方法を秘密にしてきましたので七夕まつりが絹の振興祭りであれば、その本旨は物に記したりしなかったと思われるので、本当の事が伝わっていないではないでしょうか。3,000年ものながきに渡って絹の製法の秘密を守り通して、その独占的利益で栄華を築いて来た執念には敬服するばかりです。
今日でも中国は最古の古代繭をえんえんと毎年採卵して、種の基を保持していますが、世界の学術会議であろうが何であろうが、決して公開しません。日本でも蚕種を保存するセンターが小淵沢に有りますが、明治以降のもので、中国に比べればほんの僅かなものに過ぎません。絹5,000年の歴史の中で日本が中国に勝るのは明治前期より以降100年にすぎず、昨今では質量ともに比較になりません、絹及び蚕がレアメタルの様に先端産業に不可欠な物になる時代が来ないとも限りません。
七夕まつりには誰も語らないもう一つ大事な事が隠されています。
七夕には竹に短冊を吊るします。今日では色々な色の紙の短冊ですが、本来は絹紙の短冊を吊るすのです。 繭から糸を作る過程で、毛バやら屑糸等沢山でます、殆どは紬糸等に加工しますが、ほこりの様な屑を細かく切って、トロトロになる迄煮込んで漉いて紙を作ります。この紙の短冊に願い事を書いて吊るすのです。七夕まつりは紙作りの祭りでもあるのです。
絹は余す所なく使うエコ産業なのです。そのような利用方法は今日では紙への利用はほんの少しですが、パウダにして、化粧品やサプリメント、食品添加など巾広く利用されています。
紙と云う字には糸へんを書きます、糸と云う字の象形文字は三つの繭から三本の糸がよじれて上がって行く様子を表したもので、漢字が出来る時、絹を使って出来ている物は糸へんを書いたのです。ですから綿は絹綿を表し、棉は木綿綿を表します。漢字ができる頃までは紙は絹で作られていたのでしょう。
古代の七夕の短冊に色々な色の短冊が有ったかどうか知るよしもありませんが、絹は木綿と違って非常に染色性が良く、ムラにもなりにくいので、草木で染めた色とりどりの短冊が風になびいていたと思うと実に心豊かになります。
いにしえの様に絹漉紙の七夕まつりをしてみたいものです。
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フランスは日本の絹産業の恩人
ルイ王朝と絹産業
絹の製法が東ヨーロッパ(トルコ)に伝わったのは6
世紀といわれています。ローマ時代から中央アジアやヨ
ーロッパの貴族達は何とかしてシルクの製法を入手いた
いものと色々な策を廻らしていましたが、中国の歴代王
朝は蚕の卵の持ち出しや、その製法を黄の時代から3千
年のながきに渡って秘密にして来たのでした。
それは黄河周辺の漢族が絹の製法を確立して、絹をもっ
て西方から各種種子、鉄、馬などと交易し、兵にも絹の
フエルトを着せ、強大な国を作る礎になって来たからで
す。13世紀になってフランスのルイ王朝が強大になって
来ると自国で絹を作り、貴族達にふさわしい衣装を作ろ
うとリヨンに各地から、染織、織物の職人(ギルド)達
を集め、中国に勝る絹織物文化を作り上げて行くのです。
ヨーロッパに微粒子病が発生
繁栄を極めたフランスの絹産業は1850年〜60年にか
けてフランスを中心にヨーロッパ全土に、蚕の幼虫期(
2〜3齢期)に小胞子虫が蚕に寄生し、蚕が死んでしま
う微粒子病が大発生し、ヨーロッパの絹産業が壊滅的ダ
メージを受けてしまいました。
そこで新たな蚕種製造が渋沢栄一らによって確立された
日本から、病気に冒されていない蚕の卵を大量に輸入し
ましたが微粒子病は終息せず、日本の蚕種業を潤しまし
たが,最新動力製糸工場なども稼働出来なくなってしま
いました。
その様子を幕末に幕府会計方としてパリ万博に派遣され
た渋沢栄一はつぶさに見聞し、人脈も作って来ました。
パスツール、微粒子病発見
フランスのワクチンなどの医療法を開発した細菌学者
ルイ・パスツール(1822〜1895)が微粒子病を発見しま
したがフランスの養蚕業は再興せず、アヘン戦争で混乱
し、イギリスに支配された中国から輸入する事も出来ず、
絹生産の勢いが高まる日本が注目される事になり、フラ
ンスは自国生産をあきらめ、後進国を指導して、安定的
に輸入する政策に転換して行くのです。
富岡製糸所とパリ万博
1867年のパリ万博には幕府と薩摩藩、佐賀藩などが参
加し、「四季花鳥の図」等の絹織物や日本の着物姿の女性
の茶の湯接待などがジャポニズムブームを巻き起こしま
した。参加していた渋沢栄一はフランスの製糸工場など
も見学していましたが、1868年大政奉還の報を聞くと急
遽帰朝し、政府高官となってフランスの最新製糸工場の
誘致を画策し、伊藤博文の命により明治5年にフランス
の製糸技術者ブリューナを招聘して富岡製糸場を開設し、
日本の近代絹産業の礎を築きました。
フランスへ留学生派遣
富岡製糸場を通して日仏の需要供給の流れは結ばれ、
富岡で生産された絹糸はフランスのリヨンに運ばれて行
き、市井の農家の絹糸はアメリカ等に輸出されました。
日本ではより付加価値の高い絹織物を作るため、1872年
に京都の西陣を中心に、養蚕、紡績、図案、染色、織物
など各人目的を持って第1陣を、翌年第2陣、1877年に
は第3陣の留学生を派遣し、フランスも彼等を暖かく迎
い入れ、惜しみなくその技術を教えてくれたようです。
この成果が日本の絹の世界的評価に繋がってゆくのです。
この留学生達が中心となって開かれた絹の専門学校が今
日の京都工芸繊維大学、東京農工大学、信州大学、群馬
大学です。
農商務省原蚕種製造所(後の蚕業試験場)設立
江戸時代までは絹の輸入国であった日本は、明治にな
って飛躍的発展を遂げ、主たる輸出品に成長しつつあり
ましたが、各地の蚕種がバラバラで糸質もフランスやイ
タリア、中国にも及ばないものでした。
そこで政府は全国の蚕種、元蚕種の改良統一を図るため、
1911年(明治44年)に農務省原蚕種製造所(後の蚕糸
試験場)を東京、京都、群馬、福島に開き、主に蚕種の
製造と品種の改良行ない、その結果良質な日本の生糸が
生産され始めました。その後この試験場は沖縄まで全国
各地設置され、この年蚕糸業法も制定して、繭の糸以外
の加工を禁じて、日本は絹糸生産に邁進しました。
つかぬ間の繭生産世界一
こうした官民挙げての努力で、1928年(昭和3年)に
は全国221万戸の農家で約40万t強の繭生産を果たし、
世界一の繭生産国になり、絹が当時の日本の輸出総額の
40%強となりました。
ところが、この利益で軍備が拡張され、絹の師匠である
中国に侵攻し、顧客である欧米列強と戦う第二次世界大
戦に突き進んで行ったのです。
戦中、桑田は荒廃し,戦後繭生産は復興の兆しを見せま
したが、新たな化学繊維の登場で、今日では100 t位と
なり、大量輸入国となってしまいました。
シルクロードが拓ける時代背景
シルクロードの命名
今日語られている「シルクロード」と云う呼び名は19
世紀後半ドイツのリヒトホーヘンが「ザイデン・シュト
ラーセン」と呼称し。その弟子で4回にわたって中央ア
ジアを探索し、桜蘭の遺跡などを発見したスエーデンの
ヘデインがその名を書物に書いて一般化してきました。
その他にも敦煌千仏洞の古写本を発見したイギリスのス
タインや日本の大谷探検隊などがシルクロードの夢をか
き立てました。
中央アジアの民族移動
中国の周の時代(紀元前8世紀頃)になると牧畜、農
業などが発達し、人口が増加して各邑が国となり互いに
覇を競い、紀元前6世紀には騎馬遊牧民で金属器文化を
持ったスキタイ、紀元前4世紀には陰山山脈方面に匈奴、
天山山脈方面に烏孫、タリム盆地周辺では月氏等が強大
になり始め、西方ではアレキサンダー大王の東方遠征が
あり、春秋戦国の時代を迎える事になりますが、多くの
民が戦乱を避け、各地に移動を余儀なくされました。日
本にも多くの人々が押し寄せ、縄文人を駆逐、同化しな
がら、農耕文化の弥生時代を招来した様に、漢族の膨張
のみならず、匈奴が月氏を西方に追いやった事で大きな
民族移動の波が起こってきました。月氏は中央アジアに
逃れ、「玉を東に絹を西に」に運ぶ交易を生業にする大月
氏となって行きます。
交易の必然性
戦いに勝って生き残る為には優れた新たな兵器を入手
する必要と相手を調略して攻め込まれない様にしなけれ
ばなりません。それは西方のヒッタイトが作った優れた
鉄(製鉄技術)と馬(汗血馬)が是非とも必要でした。
外交物資では絹織物、真綿、紙が特に有効で、屑真綿か
ら作られる絹紙(草木紙は漢代になってから発明、それ
以前は木簡綴り)は漢字が整備されて勅命や思想を正確
に通達する重様な戦略物資でした。真綿は兵の防寒と防
矢性に優れ、軽く運動性に富み、抗菌性など兵の健康維
持に役立ち、馬の負担を軽減し、鉄が攻めの武器なら絹
は守りの武器として極めて有効な物資でした。
西からは小麦、大豆、瓜、フエルト等、生活文化を支え
る重要な資源がもたらされ、シルクロードはこれらをよ
り安全に運ぶ道として拓かれる必然があったのです。
ルートの色々
一口にシルクロードと言っても編の目の様に色々なル
ートが出来、大きなオアシス都市で合流し、また分かれ
西方に到るのです。大別して順次4本の道が出来ました。
初めに南ルート—長安→敦煌→タクマラカン砂漠南側と
混論山脈の裾のホータンを通り→オアシス都市カシュガ
ル→サマルカンド→アレッポ→ローマの道が発達して来
たようです。
次に中央ルート—長安→敦煌→タクマラカン砂漠北側、
天山山脈の裾のトルファン→クチャを通りカシュガル→
サマルカンド。
北ルート—長安→敦煌→ビシュバクリから北はゴビ砂漠、
アルタイ山脈の北裾をぬけてタラス→サマルカンドに到
る道ですが、古から重なる民族移動でかなり踏み込まれ
て来た道でもあります。
海ルートは「海のシルクロード」と呼ばれ、陸路が乾き
や盗賊などの危険があまりに多いので漢の武帝は杭州→
広州→インドシナ半島→インド各地で交易を繰り返しエ
ジプトのアレキサンドリアに到る海路を拓きました。
張騫、法顕の西方探索
漢の武帝は広域な領土を支配する様になると兵の駐屯、
迅速な情報の伝達の必要性と文物の交流で大きな利益を
もたらすシルクロードをより安全で効率よいものに整備
する必要にせまられてきました。西域の事情を知るため
「張騫」を交易の民となった大月氏に派遣しました。
相次ぐ戦乱で民心は従来の儒教的道徳律では救われない
と新たに伝わって来た仏教に傾倒して行きますが、その
形骸は伝わって来たもののインドからの高僧は中央アジ
アの中継貿易で栄えるバーミアン周辺に留まり東の果て
にまで赴いてくれませんでした。5世紀の初め「仏法と
西方の事情」を調べるため、下級官吏の「法顕」が苦
難の道を辿り陸路でインドに到り、帰路は海路で帰朝し
「仏国記」を著し西方の事情を明らかにしました。
玄奘の仏法の道
4世紀末中央アジアの鳩摩羅什が仏典を漢訳し、6世
紀にはインドの達磨が中国に渡りましたが、7世紀初頭
になっても仏法の教義が脆弱であった為、三蔵法師が往
復陸路でインドまで赴き、教典を持ち帰り、「大唐西域記
」を著しました。その後「義浄」が往復海路でと渡印し
「南海寄帰内法伝」を書いています。
日本では遣唐使の「空海」などが大量の仏典などを持ち
帰り、8世紀のはじめに「鑑真」が戒律を伝えました。
ミニ展覧会・野蚕の帽子、パラソル
自粛生活でも散歩は必要です。日差しは日々強くなっています、
紫外線をカットしてくれる野蚕はこれからの季節にピッタリです。
絹の考古学(その5)
絹と紙
紙の発明前
現在の紙は木材等のパルプから作られていますが、最
古の紙(紙らしき物)は紀元前3000位前の古代エジプ
ト王朝でパピルス(カヤツリ草の一種)から作られたと
いわれています。ヨーロッパでは紀元前2500年位前に
は羊皮紙が作られていたようです。
同じ頃、東北中国にも南部から養蚕技術が伝わって来る
と、繭から糸を採った残糸で敷物や風呂敷の様な物が作
られたと云われています。
また、紙とはいわれませんが、南太平洋の島々(トンガ、
サモア等)で現在でも作られている「タパ」といわれる
腰飾や敷物、壁材に使うクロスがあります。
それは木の皮を剥いで叩いて延ばし、ベニヤ板の様に、
たて繊維とよこ繊維を相互にタロイモなどの糊で2〜3
枚は貼り合わせ、手描きや拓本で模様を描いた物です。
これも紙に発展する過程の物ではないかと思われます。
いずれにしても人々が邑をなし、権力者が生まれ、生
活を律する神事や、王の命令などを正しく伝える為の「
文字」が作られなければ、紙はあまり必要に迫られる物
ではなかったのではないでしょうか。
私が文字を持たない石器時代さながらの南太平洋の島
(マレクラ島)の人々と生活した時、紙には誰も興味を
示しませんでした。
日本でもつい最近まで木を紙の様に薄くした「うす板」
が肉などの食料品を包むのに使われ、魚屋などではそれ
に品名値段などを書いて商いをするのが普通でした。簡
単な覚え書き程度のものはなにも紙でなくても、木簡で
もよかったのです。奈良時代までは木簡も多く使われ
ていたようです。
紙の発明—紙はなぜ糸ヘンか
紀元前3000年頃の中国の黄河文明当時の絹には撚り
のかかった細い糸は作られておらず、権力者も庶民も手
紬の太い糸で専ら寒さから身を守る物づくりが中心でし
た。それから千数百年を経て殷の時代になると、占いな
どの象形文字が亀の甲に刻される様になり、文字が急速
に発達して来ます。それは広範囲に権力が及び、王命を
正確に伝達する手段として、また賢人の言葉を広く流布
し、国の道徳律を統一する為にも紙は必要欠くべからざ
る物になって行くのです。
権力者の為に均一な汚れのない上質な糸を作ればそれだ
け屑糸が出ます。また使い古しの真綿(絮)なども出て
来ます。それらをまとめて熱い灰汁(あく)湯で煮熟し、水にさ
らして不純物を除き、水の中でほぐし、叩いて均一にし、
干して、「絲絮片(いとじょへん)」と云う一種の不織布が「紙」と云われ
ようになりました。それはタパのように厚手の物で、敷
物などに使われていました。
ある時、その敷物を作った後の水中に浮遊している細か
な糸片を漉いて干した薄物も紙と云っていたようです。
これが紙の始まりです。
その紙は軽くて持ち運びし易く、多くの情報を正確に記
載でき、紙と文字は車の両輪の様に発達し、権力がその
上に乗って強大な王朝が形成されて行く基になって行く
のです。
周王朝の中頃には撚りのかかった薄絹も織られる様にな
り薄絹生地に沙汰書を書く様になりましたが、漢の時代
になると周辺諸族の活動が活発になり、彼らに力を示し、
慰撫(いぶ)する為にも上等な真綿(緜)を使って紙を作る事が
求められて来ました。それは「緜糸」と云われる最上級
の紙となって行きます。
紙は絹から作られたので、糸ヘンを書くのです。
さらなる紙の発展
中国の漢の時代になると樹皮や草木から紙が作られる
様になりました。この大発見が今日の紙です。
シルクロードが開けて中国から紙がヨーロッパ、エジプ
ト方面に行き渡ると、長き歴史の羊皮紙もパピルスも次
第に姿を消して行きました。
技術革新は今も昔も熾烈なのです。
絹紙の現在の評価
亀甲文字の大家に絹生地に筆で文字を書いて頂いた事
がありますが、書家はなにも言わずに作品を納めて下さ
いました。しばらく後、絹100%ではありませんでした
が、絹紙を作った会社があり、それを著名なひら仮名書
家に平安時代の様なひら仮名をしたためて頂きました所、
「この紙は筆がすすみ難い」と言われました。
絹紙は筆のすすみが和紙に近いと思っていましたが、専
門家には和紙の方がよいと云う結果になりました。
絹紙は漢字には良く、しなやかなひら仮名には不向きな
のでしょうか。紙は古代からの情報化時代を担って来ま
したが、新たな電子機器による情報化時代にどの様な役
割を果たして行くのでしょうか。
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