Archive for the ‘絹の話’ Category

絹の考古学入門(その1 日本の絹のルーツ)

2020-04-27

絹の考古学へのきっかけ

昨年京都市立大学の漆の研究者から古墳から発掘され

た棺の一部と思われる物の切片の顕微鏡拡大写真をメー

ルでいただきました。それは漆で絹と砂が45層に重なっ

た板状の物で、この絹はどの様な種類で、いつの時代の

物か判りませんか。という依頼でした。

蚕から吐糸された糸の断面が中央部に「お握り型」に見

える所が散見され、周辺に「変形三日月型」の所が混在

していて判断に困りました。切片を作るとき周辺が押し

つぶされたとも考えられましたが、変形型の方がやや多

いので、変形型の特徴がある日本の山野に生息する「天

蚕」ではないかと返信しました。後日、東京農大昆虫機

能開発研究室の先生にそれぞれの糸の断面積の計測など

をして頂いた所、「これは6世紀前半の中国の揚子江中

流で採られた家蚕の糸ではないだろうか」という所見が

ありました。私はこの事に感銘を受け、仕事の合間に絹

の考古学を紐解くようになりました。

絹の考古学に必要な基礎知識

官能検査1)目視家蚕、野蚕の判断(絹の艶の差)、

糸撚り、織方、織密度、染色深度、

文様,経年変化

2)触覚家蚕、野蚕の判断(繊度差)、繊度

偏差(古代〜現代繊度偏差減少)

科学的検査法3) 光学顕微鏡、走査電子顕微鏡、放射

性炭素測定

各種知識4)分類形態学、生態学、細胞学、遺伝子学、

育種学、生物地理学、

5)歴史学、人類学、民族学、民俗学

6)気象学(石器時代〜現代、世界の地域毎の

気温、海水位)

7)絹に関する漢字意味を理解し日中古文書を読む

多用される漢字の意味

「絹」という字は今日の日本では絹の全てを指してい

ますが、古くは中国では勿論、日本でも絹の状態を表す

ために多くの字が使われていました。古事記、続日本記、

風土記、延喜式、養老律令、令義解など読むに当たって

随所に使われている絹を指している漢字の意味を解説し

てみましょう。

絹一般をさす字は「(はく)」という字が使われています。

その中でも少々質の劣るものを「糸曾(そう)」としています。

」は平織りの中程度の織物を指し、平織り以外の物

は「綾」,「錦」等々、織りの形状によって沢山の字が使

われています。同じ平織りでも(たて)(よこ)糸が細く織り密度が

高い(含、羽二重)高級品は「糸兼(けん)」。平織りで糸の太

い物を「糸施(せ)」といい、より太くて固い物を「糸巨(きょ)」、

太く甘撚りの物は「(ちゅう)」と書いています。

綿は緜((めん()上質)、(じょ)(低質)。

絹、シナ種の誕生

小氷河期が過ぎた1万年前頃には地球の温度が現在よ

り5℃位上昇し、動植物が活発繁茂しました。狩猟で生

活する石器時代、野外の昆虫は子供でも簡単に採取でき

る栄養豊富な大切な食料でした。桑の葉に付くクワコの

繭は鋭利な石器でも切る開く事はなかなか難しく、繭ご

と口に入れて噛むと口の中に残った糸が束なって口から

出て来ます。それが人と絹の出会いであったと思われま

す。これを飼い馴らし、昆虫の家畜化に成功したのです。

それが現在の中国の浙江省付近のクワコ(生殖細胞染色

28)からはじまったといわれています(日本クワコは

同染色体27)。こうして年1回羽化する一化性の蚕「シ

ナ種」が誕生したのです。気温上昇で栄養豊富な桑の葉

も春から秋まで育ち、蚕が二化生に進化し、八千年前頃

には発祥地から亜熱帯まで南下した蚕は通年餌があるの

で、多化性(何回も羽化する)、三眠蚕(3回休眠)に進

化し、北上した蚕は気温も低く餌の葉の育つ期間も短い

ので、一化性から二化生(4眠蚕)に留まりました。

日本への伝来

第1ルート:中国東南部と南下した蚕丸みのある糸

弥生前期中国南部東シナ海北九州(養蚕技術50

0年滞留)。  一化性、二化成蚕

弥生中期雲南東シナ海北九州瀬戸内畿内

〃  〃八丈島東海地方。二化性、多化成蚕

この時は現在雲南地方に住む非漢族の(みゃお)族が中国南東部

海岸線に居住しており、彼らが進化した二化生、多化性

蚕種と染織技術を持って直接日本に渡って来たと思われ

ます。八丈島に今でも苗族由来のカタッペ織りが存在し

ています。彼らが織る錦織は弥生後期卑弥呼の時代の倭

錦となり、魏の皇帝への献上品になったと思われます。

第2ルート:中国東南部を北上した蚕扁平で細めの糸

弥生中期楽浪(北部朝鮮)日本海沿岸(北陸)

北上ルートの蚕種と染織技術を持って長期間

にわたり、幾度も大量移民。

絹の来た道 これからの道(その5)

2020-04-25

絹の多角利用

絹は今日まで数千年に渡り高級な繊維として利用され

て来ました。ところが30年ほど前東京農工大学の平林教

授により、食べるシルクが発表されると、にわかにその

方面の研究が各研究機関で盛んになって来ました。

時を同じくする様に昆虫機能や蚕の遺伝子組み換研究が

脚光を浴びて来ました。

食べるシルク

その様な時代、絹織物の盛んな滋賀県長浜では屑糸等

の有効利用を模索していました。京都の加悦町では第3

セクターを立ち上げ、加水分解したシルクパウダの発売

を始めました。それはシルクを食べると体脂肪減、高血

糖値抑制、痴呆症予防等が期待されると云う夢の様な効

果を期待するものでした。その後酵素分解法などが開発

されましたが、シルクパウダの分子の連鎖の大小で上記

の効果が著しく異なる事が判明して、塩化カルシューム

溶解法などが開発され、メタボ対策用、高血糖値抑制用

など用途に応じたシルクパウダが作られる様になってき

ました。昨今では機能性食品として高血糖値抑制のため

の美味なサプリメント等が販売されています。

また宇宙飛行士用食品開発にも注目されています。

私は「ヤセヤセ缶ジュース」の様な手軽なシル入り食品

が一般化して来る事を期待しています。

無菌培養養蚕

蚕の人工飼料が開発され、年間何度でも工場で繭生産

出来る事業が、蚕新産業の要請を受け、軌道に乗って来

ました。飼料が高価なのでさらなる努力が必要です。

医療品開発

蚕は家畜化された18種類の必須アミノ酸を作る昆虫

で、生命のサイクルが30日弱と短いので、試薬実験動

物に多用されるようになりました。無菌培養された蚕か

らインターフェロン等が作られています。また無菌培養

シルクを使った化粧品は年々愛好者が増えています。

今やシルクは簡単にパウダやゲル、高野豆腐の様な固

形物にして保存し、何時でも目的に応じて利用出来ます。

シルクは医療素材に使用しても拒否反応がありません(

シルクアレルギーは稀に存在)。古くは手術の抜かない縫

合糸からはじまって、今日では骨や皮膚、血管まで作ら

れる様になり、法整備が進みコストが安くなれば、絹は

親和性が高いので長期リハビリの要らない医療資材が現

実の物になろうとしています。

蜂の巣もシルクですが、糸は採れませんのでゲル状の

爪ケアー用品が売り出されました。2020のオリンピック

に日本のバレーボール選手が使用する事になりました。

工業製品の開発

シルクはプラスチックやビニールシートの様にもなり

ます。脱プラスチック時代を受けて防腐効果の高い皿や

ストローが使用後には健康維持食材としても利用できる

様になるでしょう。野菜などにシルクを被せておくとし

おれが遅くなります。その様な事から鮮度維持容器など

にも利用される日が来るでしょう。

また内装材としても有効です。シルクの壁は人の気持

を和やかにしてくれます。昔から貴賓室などにシルクを

壁に使用するのはその為です。火災の時も強力な耐熱効

果を発揮し延焼を遅らせ、有毒ガスの発生も有りません。

蜘蛛の糸もシルクです。細くて、軽く張力ではシルク

よりはるかに優れています。大腸菌に作らせた蜘蛛の糸

製造が日本で成功し、世界の注目を浴びています。

紫外線が当たると数時間ではあるが強度を増し、刺激を

受けると強く収縮する(捕獲糸)繊維は他に例が有りま

せん。今後の研究が待たれます。

貝絹とは貝の紐や貝が岩にくっ付く成分です。この生

態研究で水中接着剤が開発されましたが、まだまだ沢山

の機能性が隠されていると思われます。

遺伝子組み換え蚕

遺伝子組み換え技術が急速な進歩を遂げ、蛍や珊瑚の

遺伝子を持った蚕が青白く光る糸やオレンジ色に光る糸

を作る事に成功し、一般飼育が始っていますが、カルタ

ヘナ法で蚕の糞や残食の処理が厳しく規制されていて、

確たる処理方法が確立していないので、今後の発展が危

惧されています。

昆虫機能開発

蚕の脱皮ホルモンやヨウジャクホルモンの調整でニ

ワトリの卵大の繭も、スズメの卵くらいの小さな繭も自

在に作る事も出来るようになりました。

ヤモリはなぜガラス板を垂直に登れるか。蝉の羽はど

うして汚れないか、なぜ玉虫の羽根の色は退色しないの

か、アブラムシの匂いセンサー等の研究に専念して未来

産業につなげようとしている研究者が増えています。

ヤママユガ科の繭の多孔質繊維の数々の未解明機能性

の研究は急務です。

絹の来た道 これからの道(その4)

2020-04-25

日本の繭生産、養蚕技術世界一日本の繭生産、養蚕技術世界一

日本は繭生産世界一と信じておられる人が大勢います

が、今から80年くらい前の事で、絹五千年の歴史の中

でほんの80年間くらいのものです。それは明治初期か

ら昭和の日中戦争が始る以前(繭生産高約40t、昭

13年の輸出総額の約45%)迄で、他の期間は中国が

世界一です。太平洋戦争後やや復活しますが、化学繊維

の出現と労働集約的な養蚕事業が敬遠され、繭価格も他

産業就労に比べて低廉で、治水事業が整備され、転換作

物等の奨励もあり、現在はほんの少量(約200 t)です。

しかし明治初期〜昭和60年代にかけて研究された日本

の養蚕技術は現在も世界一です。

その技術はタイ、インドなど東南アジア諸国に、最近は

アフリカ諸国(エチオピア、ケニア等)にODA等を通

して移転されています。しかし完全家畜化された家蚕と

いえども、養蚕は簡単なようでなかなか難しく、何処の

国でも成功するとは限りません。

養蚕世界一への道程

日本の養蚕は米の伝来と同じ頃中国から伝えられたと

いはれ、古墳時代から奈良、平安時代に至迄中国や朝鮮

半島から大勢の養蚕、(はた)織、染色移民を招聘して絹産業

の振興に努めて来ました。7世紀になると国内生産が一

段落して、大化の改新において朝服の絹の着用と官位に

よる色を決めました。しかし十二単に見られるように上

着は唐からの舶来物を着るのが一般的だった様で、高級

品は渡り物の時代が江戸時代後期まで続きます。貨幣経

済が発達して来た江戸時代には絹の需要は増すばかりで、

その需要に応えたのがオランダ船で清(中国)の廈門(あもい)から

長崎にもたらされる絹(織物、糸)でした。

オランダ商人はその対価を純度の高い慶長小判等を求め、

流通小判の不足が生じる一因にもなり、江戸幕府は純度

の低い貨幣改鋳を繰り返すので、オランダ商人はたまり

かねて一朱銀を求めるようになって行きました。

一方幕府は奢侈(しゃし)禁止令を出し、庶民に絹(生糸の織物)

や華美な色彩の物を着る事を禁じてきました。

江戸時代後期になって遂に幕府は中国からの生糸の輸入

を禁じたのです。そこで困ったのが中国の上質な生糸を

使って高級品を織っていた西陣はじめ諸国の高級機屋で

した。彼らは中国に劣らない糸を国内で作る事に東奔西

走して中国に勝るとも劣らない糸を作る事に成功して行

くのです。これが絹生産世界一になる第一歩でした。

アヘン戦争と明治維新

江戸時代末期(1840年以降)ヨーロッパでは欧州全

域に猛威を揮っていた微粒子病(蚕の病気)でヨーロッ

パの養蚕業が壊滅状態になり絹生産が止まり、需要に応

じられなくなっていました。インドを植民地にし、綿花

やスパイスを手に入れたイギリスは更に東進をすすめ、

東インド会社をして中国の絹を手に入れようとアヘン戦

争を起こしたのですが、清朝が弱体化して絹を思うよう

に輸入できなくなってしまいました。

その様子は琉球を通してつぶさに見ていた薩摩藩が明治

政府の主導権握ると殖産興業の柱を「絹」に据えたので

す。この事が絹生産世界一になる第二の大きな要因です。

渋沢栄一と富岡製糸場

江戸末期はより良い糸を作るため各藩、特に水利が悪

く稲作が不向きの地域では蚕種、養蚕技術の改良に熾烈

な競争をしていました。それを指導したのが豪農の蚕種

業(養蚕農家に蚕の卵を売る)の人々でした。

渋沢栄一は現在の埼玉県深谷市の蚕種農家で蚕種、養蚕

技術の改良に心血を注ぎ、山形地方など対抗する何処よ

りも優れた蚕種と養蚕技術を確立して行きました。

それから京に出て維新の混乱の中を生き抜いて士分にな

り、明治政府の民部省(現経産省)に入り、西欧視察の

経験と人脈を生かして、フランスの最新式動力製糸機と

技術者を群馬県富岡に誘致招聘し「富岡製糸場」を明治

5年に創業させると云う大仕事を成し遂げるのです。

一方、東京青山に養蚕所を開き皇后陛下にも養蚕をして

頂き、現在も続いています。

富岡製糸場が果たした役割は実に大きなものがありま

した。それ迄の日本の絹は各藩の規格で、品質のバラツ

キが多く、幕府は検査を通ったものに印紙を貼らせたり

改革に努力をしていましたが、輸入業者を困らせていま

した。富岡製糸場は各藩の藩士の子女を中心に募集し、

技術の伝習を終えた者を郷里に帰し、各地の製糸技術と

糸の品種の向上を計りました。

また、政府は蚕糸業法を制定し、蚕種の管理を徹底し、

各県に蚕糸試験場を設置して蚕の生理、病理、飼料、機

具などの研究と養蚕農家の指導に当たらせ、収量増大に

つなげてきました。短期間で繭の世界一生産国になれた

のは明治と云う時代のうねりはあったものの勤勉な国民

性が大きな要因ではなかったでしょうか。

日本は繭生産世界一と信じておられる人が大勢います

が、今から80年くらい前の事で、絹五千年の歴史の中

でほんの80年間くらいのものです。それは明治初期か

ら昭和の日中戦争が始る以前(繭生産高約40t、昭

13年の輸出総額の約45%)迄で、他の期間は中国が

世界一です。太平洋戦争後やや復活しますが、化学繊維

の出現と労働集約的な養蚕事業が敬遠され、繭価格も他

産業就労に比べて低廉で、治水事業が整備され、転換作

物等の奨励もあり、現在はほんの少量(約200 t)です。

しかし明治初期〜昭和60年代にかけて研究された日本

の養蚕技術は現在も世界一です。

その技術はタイ、インドなど東南アジア諸国に、最近は

アフリカ諸国(エチオピア、ケニア等)にODA等を通

して移転されています。しかし完全家畜化された家蚕と

いえども、養蚕は簡単なようでなかなか難しく、何処の

国でも成功するとは限りません。

養蚕世界一への道程

日本の養蚕は米の伝来と同じ頃中国から伝えられたと

いはれ、古墳時代から奈良、平安時代に至迄中国や朝鮮

半島から大勢の養蚕、(はた)織、染色移民を招聘して絹産業

の振興に努めて来ました。7世紀になると国内生産が一

段落して、大化の改新において朝服の絹の着用と官位に

よる色を決めました。しかし十二単に見られるように上

着は唐からの舶来物を着るのが一般的だった様で、高級

品は渡り物の時代が江戸時代後期まで続きます。貨幣経

済が発達して来た江戸時代には絹の需要は増すばかりで、

その需要に応えたのがオランダ船で清(中国)の廈門(あもい)から

長崎にもたらされる絹(織物、糸)でした。

オランダ商人はその対価を純度の高い慶長小判等を求め、

流通小判の不足が生じる一因にもなり、江戸幕府は純度

の低い貨幣改鋳を繰り返すので、オランダ商人はたまり

かねて一朱銀を求めるようになって行きました。

一方幕府は奢侈(しゃし)禁止令を出し、庶民に絹(生糸の織物)

や華美な色彩の物を着る事を禁じてきました。

江戸時代後期になって遂に幕府は中国からの生糸の輸入

を禁じたのです。そこで困ったのが中国の上質な生糸を

使って高級品を織っていた西陣はじめ諸国の高級機屋で

した。彼らは中国に劣らない糸を国内で作る事に東奔西

走して中国に勝るとも劣らない糸を作る事に成功して行

くのです。これが絹生産世界一になる第一歩でした。

アヘン戦争と明治維新

江戸時代末期(1840年以降)ヨーロッパでは欧州全

域に猛威を揮っていた微粒子病(蚕の病気)でヨーロッ

パの養蚕業が壊滅状態になり絹生産が止まり、需要に応

じられなくなっていました。インドを植民地にし、綿花

やスパイスを手に入れたイギリスは更に東進をすすめ、

東インド会社をして中国の絹を手に入れようとアヘン戦

争を起こしたのですが、清朝が弱体化して絹を思うよう

に輸入できなくなってしまいました。

その様子は琉球を通してつぶさに見ていた薩摩藩が明治

政府の主導権握ると殖産興業の柱を「絹」に据えたので

す。この事が絹生産世界一になる第二の大きな要因です。

渋沢栄一と富岡製糸場

江戸末期はより良い糸を作るため各藩、特に水利が悪

く稲作が不向きの地域では蚕種、養蚕技術の改良に熾烈

な競争をしていました。それを指導したのが豪農の蚕種

業(養蚕農家に蚕の卵を売る)の人々でした。

渋沢栄一は現在の埼玉県深谷市の蚕種農家で蚕種、養蚕

技術の改良に心血を注ぎ、山形地方など対抗する何処よ

りも優れた蚕種と養蚕技術を確立して行きました。

それから京に出て維新の混乱の中を生き抜いて士分にな

り、明治政府の民部省(現経産省)に入り、西欧視察の

経験と人脈を生かして、フランスの最新式動力製糸機と

技術者を群馬県富岡に誘致招聘し「富岡製糸場」を明治

5年に創業させると云う大仕事を成し遂げるのです。

一方、東京青山に養蚕所を開き皇后陛下にも養蚕をして

頂き、現在も続いています。

富岡製糸場が果たした役割は実に大きなものがありま

した。それ迄の日本の絹は各藩の規格で、品質のバラツ

キが多く、幕府は検査を通ったものに印紙を貼らせたり

改革に努力をしていましたが、輸入業者を困らせていま

した。富岡製糸場は各藩の藩士の子女を中心に募集し、

技術の伝習を終えた者を郷里に帰し、各地の製糸技術と

糸の品種の向上を計りました。

また、政府は蚕糸業法を制定し、蚕種の管理を徹底し、

各県に蚕糸試験場を設置して蚕の生理、病理、飼料、機

具などの研究と養蚕農家の指導に当たらせ、収量増大に

つなげてきました。短期間で繭の世界一生産国になれた

のは明治と云う時代のうねりはあったものの勤勉な国民

性が大きな要因ではなかったでしょうか。

絹の来た道 これからの道(その3)

2020-04-25

絹の軍事利用

古代から絹(生糸)は美しい織物として権力者によ

って多用されて来ました。

ところが、長繊維である生糸は繭の20%~30%しか採れ

ず、残りは屑糸となり、紬として庶民にも利用されて

来ました。紬は蝉の羽根の様に薄く艶やかで、霧の様

に柔らかくとはなりませんが、軽くて丈夫で温かく、

夏でも蒸れず、寒冷にも凍結しにくく、緩衝性にも吸

臭性にも優れていて、気持ちを和らげます。

その様な素材を権力者が見過ごす訳が有りません。

緜衣(めんい) 緜甲冑(めんかっちゅう)

中国の殷、周の時代になると大陸の中で派遣争いが大

規模になり、青銅製の兵器等の金属兵器から兵士を守る

為、大量に生産され始めた繭から得られる(じょ)(真綿)や

屑繭から兵士の外装や兜を手軽に大量に生産し、軍事に

利用され始めたのです。鉄兵器の時代になっても清の時

代に至るまで利用されて来ました。

漢時代の墳墓の兵馬俑の服装をお思い出して頂ければ解

りやすいですが、唐の時代には紙絮(絹の屑を紙に漉い

た物)、明の時代でも綿甲(繭を濡らして木鎚(きづち)で紙のよう

に薄くした物をタイル貼りの様にベースの生地に鋲で打

った物)が盛んに使われていました。

清の時代になると、緜衣に菱形の鉄甲板を鋲でとめた武

官鎧が作られていたという記録が有ります。

ローマ帝国の兵士もシルクロードからもたらされた緜衣(めんい)

を着て戦ったところ、敵の矢を防いだという話が残され

ています。

蒙古軍「 絹と羊毛のフエルトで世界制覇」

蒙古では羊毛は沢山とれますが絹は生産されません。

絹の機能性を知ったチンギスハーンは万里の長城を超えて

中国に侵入すると「先ず銀を奪うべし、次に絹を奪うべし」

と命じ、奪った絹を羊毛と混ぜたフエルトを作らせます。

(羊毛と真綿を大きな恵方巻き(のり巻き寿司)のように

簀巻(すまき)きして水をかけて馬で平原を長時間曳き回して作る)

これは強力な防矢性を発揮するばかりでなく、軽く軽快で

戦闘性が向上し、野営する兵士には防寒に役立つばかりか

絹の抗菌性による皮膚病等の予防になり、馬の疲労も和ら

げ、行動距離が増し、兵士の士気はグンと向上したのです。

特に黄河より南は羊毛フエルトの軍装では夏期の駐屯は暑

くて不可能でしたが、絹羊フエルトの軍装は温度が上がり

過ぎず南下を可能にして、タイ国境にまで進出し、東ヨー

ロッパにまで制覇する事が出来たのです。

鎌倉時代日本に襲来した時の蒙古兵は絹羊フエルトワンピ

ースとブーツ、先頭兵士は金属兜ですが、後方兵士は緜甲

冑でした。この時の戦闘の様子を記した当時の記録に「蒙

古兵は射れども射れず、斬れども斬れず」とあります。

蒙古の元は絹を利用してアジア大陸を制覇したと考えても

よいでしょう。

日本の絹生産 「刀と戦争」

日本では7世紀白村江に出陣する兵士に緜甲冑を付けさ

せた記録が有ります。

鎌倉時代、元弘の役の苦戦に懲りて、絹が斬れる刀を作

らなければ蒙古兵には立ち向かえないと考えた時の政権は

絹が切れる日本刀を作ることに心血を注ぎ、軟鉄に玉鋼を

巻き鍛えて、反りの研究を重ね、五郎正宗をして、日本刀

を完成させるのです。

戦国の武将は、刀傷を少しでも防ぐ為と、鎧の中の熱や

汗、臭いを和らげる為に、平面繭(蚕に繭を作らせず、平

な広い所に蚕を置いて和紙の様な絹を作らせる)を着用した

と云われています。

日本が絹生産世界一の時代

昭和10年台になると、絹は輸出総額の45%前後になり、

このお金で軍備を拡充し、第2次世界大戦をアメリカ、イ

ギリス等連合国と戦争をすることになったのです。

その時、日本の航空兵は暖房のない機内で身体を冷やさ

ないため絹のマフラーを首にしっかり巻き付けて搭乗し

ていました。落下傘もさらりと開かせるため絹で作られ

ました。北支派遣軍の冬の軍装に軽くて暖かく、緩衝性

に優れたエリ蚕が使われました。

これからの絹の軍事利用

昨今世界中で軍事用に研究されている絹は「蜘蛛の糸」

です。蜘蛛の糸は蚕の絹より優れた機能性が多く、特に

張力は蚕の糸よりはるかに勝っています。

現在は軍事用防弾チョッキ製造が期待されていて、集団

で飼育出来ない蜘蛛に代わって、蜘蛛の糸の遺伝子に組

み替えられた家蚕に蜘蛛の糸を量産させようとしていま

す。また、大腸菌に蜘蛛の糸と同じ物を作らせる事に成

功したようです。

絹は今後もっと多方面に利用されて来ると思われます。

絹の来た道 これからの道(その2)

2020-04-25

絹の製法秘密厳守

中国で絹が作られてより、歴代の古代王朝はその製法

が流布する事を禁じてきたようです。

先ず蚕種の流失を厳しく取締り、次いで製糸技術も制限

したようです。

特に薄衣をしなやかに纏う事は権力者の象徴であり、富

裕の証で有りました。

絹布は権力者から臣下に褒美、他国、他民族との外交品、

上司から臣下に、臣下から上司に祝儀として盛んに使わ

れていました。

絹を差配する事は権力者の大きな財源でもありました。

今日でも使われている「羽振りが良い」とは、薄衣を靡

かせて歩く姿を言ったものです。

絹の製法の伝播

中国の漢の時代になると、シルクロードが整備され、

ローマや西方の国々との交易が盛んになって、絹の需要

は高まるばかりでしたので、中央アジアからローマに至

る国々では蚕種をなんとか入手し、自国で絹を作ろうと、

時の中国の王朝に対してあれこれ画策するのですが、な

かなか実現しませんでした。あるとき中央アジアの国の

王子が中国王朝の姫と婚姻する事になり、中国からはる

ばる輿入れするとき髪飾りの中に蚕種を入れて来るよう

に頼んだ、と云う話があるほどでした。

現在のアフガニスタン周辺の国々はシルクロードの中継

貿易で栄え、そこを通ってシルクが運ばれて来るので、

ローマの人々はシルクが中国ではなく中央アジアの何処

かで作られていると信じていました。またローマの人々

はシルクが何から作られているか知りませんでした。

やっとヨーロッパの入り口のトルコ(現在)に伝わる

のが6世紀というのですから、絹が作られてより三千数

百年、シルクローロが拓けてから千年弱シルクの製法の

秘密を守ってきた歴代中国王朝の手腕に驚くばかりです。

東方の日本にはどうでしたでしょうか。

日本には日本在来種の中国とは違った「クワコ」がいま

したので、これを利用して絹の紬を作っていたのかも知

れませんが、養蚕技術は稲作と一緒に伝わったというの

が定説です。稲作、即ち縄文後期なので、今から三千数

百年前には中国から家畜化された蚕種が伝えられたと思

われます。そうすると中国の歴代王朝は極東の日本を含

めて自国の範疇と考えていたのでしょうか。

後世、卑弥呼が魏の国に朝貢した時、献上した絹布は素

朴なものであった様で、紬ではなかったでしょうか。

魏の王からは当時の日本では見た事もない目映いばかり

の錦織三反、平織り絹布百反を賜ったと魏志倭人伝に記

されています。その当時まで日本には錦織は勿論、羽振

りをきかす様な絹織物を作る技術は伝わっていなかった

と考えられますが、それを必要とする権力が存在してい

なかったと言った方がよいかも知れません。

養蚕技術

生糸で絹布を得るには、繭の糸口を見つけて、3粒〜

10粒を合わせて揚げ、精練、撚糸して織物を作るのです

が、紬糸を作る作業に比べて、大変精密な技術が要りま

す。中国の漢の時代以前には既に蝉の羽のように薄く、

霧のように柔らかい絹織物が出来ていたのですが、4世

紀の倭の国にはそこまでの技術が無かったと思われます。

日本が絹織物の技術を本格的に導入し始めたのは大和

朝廷が確立する頃からで、その当時中国や朝鮮から大勢

の職人集団が幾度も渡来して絹産業を興隆させて行くの

です。その職人集団は大和周辺で技術を伝え、それが一

段落すると、彼らに官位など付与して日本各地に移封し、

その技術を各地に広めたのです。

三河の国にも彼らの移封があり、上質な繭を産する国と

して名声を高めてゆくのです。

絹の着用

三国志や韓国、日本の時代劇映画を見ると、支配階級

の人々はいずれも艶のあるしなやかな衣装を着ています。

楊貴妃にしても高松塚古墳の壁画に描かれている女性達

はみな薄衣を纏っています。

日本では各地で繭の生産が増し、絹加工技術移が一段落

した大化の改新の時、貴族等官位ある人々の公式時には

色で官位の区別をした絹の着用を義務づけました。

また当時宮中の祝事等のとき、祝儀の品として絹織物が

盛んに諸臣に配られたといわれています。

現在のテレビ等で見る韓国の時代劇は位階による着用色

がはっきり区別されていて参考になります。

但し、主に生糸をとった残りなどで作られる紬は、生糸

に比べて艶がなく、しなやかさにも欠けますので庶民に

も着用が許されていしました。

この事は江戸時代まで続きますので、絹は庶民には身近

で遠い存在になって行くのです。

絹の来た道 これからの道 (その1)

2020-04-23

絹の誕生

昆虫の家畜化は蚕以外に今日まで他に例を見ません。

人類の歴史の中で、犬は2万年、牛馬は1万5千年、猫

は8千年前に家畜化されたと言われています。

8千年前といえば、氷河期が過ぎ、大地に豊かな森がで

き、針葉樹に代わり広葉樹林が広がった時期で、その腐

葉土が育む植物プランクトンが川から海に注ぎ、豊穣な

海が出来て来たのです。

蚕は少なくとも5千年以前には桑の葉を食べる小さな

クワコの家畜化に成功して、中国で養蚕が行なわれるよ

うになっていました。しかし他にも野外にはワコより大

型の繭を作る昆虫は多種多様あり、どうして小さなクワ

コ(2粒の大豆)を選んだのでしょうか。そもそもどの

様なきっかけで絹を発見したのでしょうか。

昆虫食

それは人々が狩猟生活が中心の時代、今日でも我々は

蜂の子やイナゴを食べているように、当時の人々にとっ

て昆虫食は簡単に入手出来る大切な蛋白源でした。

特に糸を吐く直前の幼虫の体がシルク蛋白でいっぱいに

なっている虫が美味しいですが、繭になってしまって、

木の葉に付いているものの中身を食べようとしても、繭

は強靭で石器などでは切り開いて中の蛹を取り出す事は

できません。やむなく繭ごと口に入れ、蛹の汁を食した

と思われます。その時、口から糸が出て来る事にヒント

を得て、糸づくりが始まったと思われます。

この事の証拠の一つに愛知県豊川市に蚕を食べた犬が

止めどもなく絹糸を吐いたと云う犬を祀る「犬神神社」

がある事でも解ります。また昭和のはじめ頃までは、養

蚕産地では生繭(乾繭にする前)を子供のおやつにして

いた所もあります。その子達は繭をしゃぶり蛹を食べ、

口から出る糸を親に渡していたようです。

それでも虫が不味ければ人は食べません、各種昆虫の中

でもまずまずの食味感であったと思われます。

一昨年、ラオスの山岳地域の昆虫食などの食味人気度調

査では、No.1は蜘蛛、No.2は蝉、No.3が蛹でした。

繭の色

野性の繭はそれぞれ捕食されないように回りの環境の

色に似た特有の色(多くは濃茶、薄茶、緑、黄、グレー

等)をもっています。またその色は紫外線等から蛹を守

る為の色でもあります。

ところが、クワコは他の野蚕繭にはない薄グレー、生成

り等が多く、極めて白に近い色の繭もあります。

狩猟時代白は貴重な色です。長い年月をかけてより白い

繭を作る蚕を選別して、今日の白色繭を獲得したのです。

解舒が容易

今日の繭では想像し難いですが、野性のクワコや初期

の養蚕繭は糸の外側に付いて繭を固めているセリシンと

云うニカワ質の蛋白質が少なく、今日の繭のように煮繭

しなくても、糸口を見つければゆっくりと細い1本の糸

を揚げられたから利活用に着目されたのでしょう。

それに引き換え、幾多あるクワコ以外の大型の野性繭は

繭層が固く強靭で、簡単にほぐれて糸を揚げる事は出来

ませんので、産業化の道から外れて行ったと思われます。

大人しい虫

もう一つ、昆虫の家畜化で大切な事は幼虫の運動性で

す。広範囲に動き回らなく、桑の葉をおとなしく食べる

虫が飼育し易いのです。人はクワコを逃げなく、飛翔も

しない家畜化に成功したのです。それが「蚕」、家蚕なの

です。それは固い樹皮糸(麻)や獣毛にもはるかに勝る、

軽く艶やかで美しく、柔らかく温かい理想の繊維の発見

でした。それをより沢山手に入れるべく、より従順な虫

ずくりに励んだのです。

強力な支配者の出現

数千年前になると、人々の中に国家的集団が出来て来

て、身分制度も確立してきます。

彼らは新しい絹という衣服を纏う事によって権威を示し

始めました。次第に絹の着用は支配階級の特権になって

行きます。最高級絹を表現する言葉に象形文字で書かれ

た「蝉翼霧」(蝉の羽根のように薄く、霧のように柔

らかい)と云う表現がそれを物語っています。

中国の歴代の王朝は絹の製法を西方等に伝える事を固く

禁じていましたので、古代ローマの人々は絹が何から作

られているか解らず、絹を「セル」、絹を作る人達を「

セレス」とよんでいました。

七夕まつりは男が桑を育て初夏に繭ができ、夏に糸に

なり、女が機織りをする「絹まつり」だったのです。

この様な上質な物を織る時は、織り姫を覗いたり、声を

かけてはいけません。気が散って織りムラができてしま

います。これが鶴の恩返しの話になっています。

日本では大化の改新から明治に至るまで庶民が絹の着

物を着る事を禁じていました(紬は可)。

絹の化粧品の予期せぬ効用

2020-03-09

天蚕ハンドクリームで(かゆ)み解消

日頃、絹製品を販売しながら絹が身体にも環境にも良

い事をお客様にいつも話しています。

自分も季節を問わず下着は靴下まで野蚕の絹を着用し、

販売時にはではブラウスなども野蚕絹を着て、冬のマフ

ラーは絹の中で最も柔らかいエリシルクを使っています。

朝、ひげ剃りして顔を洗った後は、ひげ剃りクリームの

代わりに家蚕のシルクローションを塗り、手には天蚕の

ハンドクリームを塗ります。
そのせいか、馬齢を重ねた今も、一般健康診断では問題

になる数値は有りません。

絹の空気を吸っている当スタッフも同様です。

ところが、3年余り前から足のすねに痒みを覚えるよ

うなりましたので、皮膚科の医院に行った所、「老人性

乾燥肌で、誰しもそうなって行きます。」と診断され、

軟膏を処方されました。塗った直後は何となく痒みは収

まるのですが、夜半にふくらはぎの方まで強烈に痒くな

ったりする様になり、新たに軟膏や飲み薬を頂きました

が、薬が2,3日切れると痒みが戻って来ます。薬がなく

て大腿部まで拡大して来た夜、思い余って、いつも手の

甲に塗っている保湿性の高い天蚕シルクのハンドクリー

ムを足全体に塗ってみました。しばらくすると、不思議

に痒みが消えて安眠する事が出来ました。

その後は医者に行く事なく、3日に一度程度天蚕ハンド

クリームを塗っています。

思わぬシルクの効用にビックリしている昨今です。

痒みの原因は何で有ろうか

若い年代では古くなった皮膚は垢となって破棄され、

新たにみずみずしい皮膚が不断に代謝されますが、年を

とるにしたがって新陳代謝の衰えから、皮膚の表面の角

質層の代謝も衰え、古い表面の角質層の水分が失われ、

乾燥し、所々破れて、第2角質層が露出し、そこに雑菌

が繁殖し、皮膚の下から痒みを伝達する神経が表面に浮

き出し、痒いと云う警告を出していると思われます。

その時、親和性に優れ、保湿性が高く抗菌性のある野蚕

シルクのゲルを塗れば破れた角質層をシルクゲルが補修

した状態になり、とりあえず痒さは無くなると思えます。

痒さから解消されるもう一つの発見

老化を促進する余剰活性酸素の害を考えなければなら

ないと思います。

現在の地球環境は100年前とは比べ物にならないほど空

気には化学物質が浮遊し、同様に水も汚染され、食品も

幾種類もの化学物質が含まれ、ビタミン、各種ミネラル、

繊維質不足の人工栽培野菜等に囲まれた現代生活は、余

剰になった活性酸素の毒性を中和する力が弱く、どうし

ても体内に活性酸素が増えて、身体の老化等の様々な支

障を起こす事になると考えられます。

加齢による痒みも活性酸素過多による皮膚の老化がその

一因であれば、絹が活性酸素の害を中和して老化を抑制

し、痒みを解消していると思えます。

絹化粧品の機能性

シルク化粧品はシルクの持つ保湿性、抗菌性、防紫外

線性、吸臭性、吸色素性などを期待した物です。

シルクは人に必要な18種類の必須アミノ酸で出来てい

ますので、親和性に満ちていて殆どの人に拒否反応は有

りません。(シルクアレルギー者、1/25万人)

シルクローションをつけるとか顔が艶やかになり、紫外

線から肌を守り日焼けを防ぎます。特に夏期には汗に含

まれる老廃物から雑菌によりアンモニアなどが作られ、

汗臭さが夕方になると強くなって来ますが、シルクはそ

のような雑菌の繁殖を抑制しますので、汗臭さも和らぎ

ます。そればかりでなく色素や臭いを吸収する性質もあ

りますので少しではありますが、肌の美白効果が見られ

ます。シミ、ソバカスなどが濃くなるのを防ぎ、体臭や

老臭なども和らげます。また、コラーゲンの減少を僅か

でも抑える効果もあるようです。使用実験ですが、肌の

小ジワが少し目立たなくなります。

シルク化粧品の色々

シルク入り化粧品は1980年頃から大手化粧品会社か

ら発売されています。当時はシルクと云うイメージで売

られていて、機能性を大きく取り上げているアイテムは

殆ど有りませんでしたが、昨今シルクの機能性が次々に

解明されると、上記の様な様々な使用目的を持った化粧

品が作られる様になって来ました。

絹は繭の種類、部位によってアミノ酸の構成比率も異な

り、機能性も異なります。また絹をパウダやゲルにした

時、その粒子の大きさでも機能性が違って来ます。それ

らの事は専門家の間では常識になっていますが、薬事的

な認知はされていませんので、機能性を明確に表示した

化粧品はまだありません。

早く確かな研究が確立する事を願ってやみません。

絹の枕を作る

2020-03-09

絹枕使用体感

先日、絹から高血糖値を下げるサプリメントを作って

いる会社から絹の残綿の有効利用はないかと相談を受け、

早速、絹の複数の糸商社にサンプルを送り、検討を依頼

しましたが、繭の形をした部分や真綿状の所、一部に糸

が切断された箇所も有り、繊維長も短く、桑葉の小片、

草木の小枝なども混入し、通常の真綿の状態ではないの

で、精練やカードなど、手間をかけても歩留まりも悪く、

一般的な絹紡糸を作る事は不可能な事が判りました。

そこで手間をかけずにゴミを取り除くだけの中綿絹100

%で、シーツ用エリ蚕の生地をカバーにした素朴な枕を

試作して使ってみました。

頭を枕に乗せるとフワっと耳の近くまで周りの綿が盛り

上がり、それでいて頭の着枕部分はそれほど沈まず、綿

が分かれず、柔らかーい暖かさに包まれ、その暖かさは

耳の下から喉を伝わり肩まで包み込んでくれます、その

感触の良さは筆舌し難いものがありました。深い眠りに

つけた事はいうまでもありません。半年来右肩の凝りが

ひどくなり、うっとうしい毎日が続いていましたが、翌

朝、肩こりが消えているのにビックリ。身体の動きも何

となく軽やかに感じたのです。常に野蚕絹のシーツと下

着上下を着て寝ていて、絹の肌触りには慣れていると思

っていましたが、また新たな絹の感触と機能性の恩恵に

出会いました。

絹と活性酸素

今まで絹は薄く使われて来ましたが、上記の枕の様に

あまり加工を施さず、厚く使う事で絹が人体にどの様な

機能性を発揮するのか調べてみる必要を痛感しました。

絹は保温、保湿効果により血行促進をする事はよく知

られていますが、それだけではこの劇的な肩こり解消は

説明出来ません。

家蚕絹フィブロイン(通常の糸に使う部分)は18種類

の必須アミノ酸で構成されていますが、その中に0.2%

のシスチン、0.1%のメチオニンが含まれ、それが毒性の

強い活性酸素の電子を吸着して中和する働きをし、12.1

%含まれるセリンにはその電子を受け取る補助をする性

質があり、この作用が肩こりを癒してくれる一因だろう

と考えました。

活性酸素とは

大気中に含まれる酸素分子がより反応性の高い化合物

に変化した分子や元素の電子などの量子をいいます。

人はこれがないと生きて行けませんが、過剰になると毒

性が強なる電磁波を中和しなければ老化や様々な病気や

癌の要因になると考えられています。

活性酸素の毒性を中和する物の中には緑黄野菜や魚介類

に多く含まれるビタミンCE、カルチノイド、ホリフ

ェノールなどの抗酸化物質が有ります。

ところが最近ハウス野菜や養魚などには露地物に比べて

抗酸化物質が少なく(推定露地物の1/4)、かなりの量を

摂取しなければ癌などの抑制になりません。ハウス野菜

を4倍も食べる事は出来ませんので活性酸素を中和しき

れていない事が癌をはじめ様々な病気の多発の大きな要

因と思われます。

9種類ある活性酸素の中には食品や人が持つ酵素では中

和出来ない物が有り、前述の絹のアミノ酸はそれを少し

でも中和しますので癌予防や防放射能にも役立と思われ

ます。

絹糸昆虫の進化

昆虫と哺乳類は恐竜時代を過ぎると相互にめざましい

発展を遂げて来ましたが、絹糸昆虫は限られた葉のみを

食べているのに活性酸素から身を守るアミノ酸を得る事

に成功しました。その他、この事と似た特異な機能とし

て、糸の中に吸収された紫外線を無害な波長に変えて、

DNAの異変を阻止する機能も取得しています。

人類は多様な食性により、過多となった活性酸素に対抗

して来ましたが、どちらの選択が長い生存競争に勝てる

のでしょうか。

近代の人工的食料生産は健康な人類の将来を危うくさせ

ないか心配です。

絹を着ると気持ちが良い

絹を着るとサラットとして寒からず暑からず気持ちが

良いのは、細い繊維間に空気が沢山含まれるのと、アミ

ノ酸蛋白の構成由来からオキシトシンやセロトニンの様

な幸せホルモンが分泌されるので壮快さを感ずるのです。

絹にほんの少ししか含まれていない一部の蛋白質が活性

酸素の増加を抑制して、その毒性を中和すると考えると

絹の機能性の説明が明瞭になります。

そう考えると絹を着たり食べたりすると、手などが震え

るパーキンソン病などにも効果が有ると言えるでしょう。

絹の機能性研究をもっと深め、新たな絹の利活用に取り

組まなければならないと思いました。

絹のストッキング、靴下

2020-02-08

絹の靴下の歴史

日本では、絹は晴れ着用として他の繊維とは別格に扱

われて来て、靴下に使うという発想には馴染まなかった

様ですが、昨今絹のストッキングや靴下が蒸れなくさっ

ぱりしてなんとなく気持ちが良いと云うので静かなブー

ムになっています。

絹の靴下が世界の歴史に登場するのは、1547年イギリ

ス国王ヘンリー八世へのスペインからの贈り物の中の一

つにあったそうです。

ヨーロッパの絹生産はフランス、イタリアが盛んであり

ましたが、当時スペインはヨーロッパの最強国で、服飾

などの流行の発信地でもあった事を思えばうなずけます。

それまでの靴下は革、毛、木綿が使われ、保温を主とし

た装飾的なものでした。

ところが絹の靴下は薄くて透明感があり艶やかで、軽く

伸縮性に富み、足にフィットして履き心地も良く、女性

の脚線美を強調出来ると云うので、スペインからイギリ

ス、フランスへと瞬く間に広がって行ったようです。

ヘンリー八世のあとを継いだイギリスのエリザベス一

世は絹の靴下をこよなく愛用したといわれています。

20世紀初めになってアメリカで爆発的に流行し一世を

風靡しました。それまで日本からの絹の輸出はヨーロッ

パ中心でしたが、アメリカへの輸出が主流になってゆ

くのです。

しかし1938年ナイロン生産が工業化されて、細くて太

さにもムラがなく、透明感があり、丈夫で安価なナイロ

ン製ストッキングが絹のそれに取って代わりました。現

在ではパンテストッキングが中心になっています。

絹のパンテストッキングの復活

絹のストッキングやパンストの泣き所は摩擦に弱く、

すぐ穴があいてしまい、高価な割には耐久性に欠ける点

が最大の弱点で、逆にナイロンのそれは摩擦に強く伸縮

性に富み、価格も安いので、瞬く間に広く一般化し、絹

のストッキングなどを駆逐してしまいました。

ところがポリウレタンやナイロンと絹を会わせて1本の

糸にする技術が開発され薄くて透明感があり、摩擦に強

く、伸縮性に富み、絹の感触を満喫出来るストッキング

等が登場すると静かなブームが起きてきました。

今日のシルクストッキングなどは殆ど化繊を芯にして、

芯の周りに絹を巻き付けた糸で編まれたものです。

新しいシルクストッキングの糸の構造

シルク・シングルカバーリングヤーン

伸縮性の大きいポリウレタンの糸を芯にしてシルクを巻

き付け、表面は全面シルクになる様に作った糸。

シルク・ダブルカバーリングヤーン

ポリウレタンの糸を芯にしてナイロンの糸を巻き付け、

強度を補強し、もう一層シルクの糸を巻き付けると云う

三重糸。

ハイブリッドシルク

ナイロン等を芯にしてその周りを数本の細い絹糸で芯と

同方向に並べて覆い、糸の表面は絹となる様にしたもの。

パンテストッキングの編み方

ウーリータイプ

主にハイブリッドシルク糸を仮撚り加工し、細かにカー

ルさせて、その糸を何本か合わせ、撚りをかけて編み、

精練、熱収縮したもの。

シャータイプ

カールのない糸を何本か会わせ、甘撚りをかけて編んだ

もの。絹100%の靴下はこのタイプが多いが、価格も高

く、生産量もあまり多くありませんが少ない。履き心地

が良いので 根強いよい人気があります。

ケンネルタイプ

ウーリー、シャータイプの中間の糸で編んだもの。

サポートタイプ

伸縮性の大きいポリウレタンの繊維の回りに絹やナイロ

ンでカバーリングした糸で編み、編立後に精練したもの。

パンテストッキングの流行

世界中、中性から現代にかけて女性の衣料は重装から軽

装になって来て、足を露出して曲線美を表現する様にな

り、パンテストッキングの需要は益々増加しています。

絹ってどんな繊維

2020-02-08

今日迄、色々絹の話を書いて来ましたが、絹がどんな

繊維なのか冒頭にお話すべきでしたが、そのつど話しを

進める上で必要な事を述べて来て、定かにしていません

でした。改めてお話してみましょう。

絹の成分

絹は天然繊維の中で綿や麻の様なセルローズ系の繊維

ではなく、ウールと同じような蛋白系のアミノ酸鎖で出

来た繊維です。その蛋白質も球状蛋白質ではなく真っす

ぐに連なる繊維状蛋白質で、セリシン、フィブロインと

いう2種類から構成されています。他にロウ質、炭水化

物などがほんの少々混じった特異な繊維です。

絹の蛋白質

セリシンとフィブロインは同じ蛋白質でありながらア

ミノ酸の種類と結合の順序が違うので、物理的、化学的

、生理的機能の違いが生じます。

セリシンのアミノ酸組成はセリンが1/3で水と親しみや

すいスレオニン、アスパラギン酸、グルタミン酸などで

70%威以上を構成している水に溶けやすい成分です。

フィブロインは分子量の小さいグリシン、アラニン、セ

リンなどで占められているので強く縦に結びついていて

強靭で伸縮性があります。

野蚕ではアラニンの方が多いといった違いがあり、蛋白

質の結晶の化学構造も異なるので、強度や各種機能性、

染色性の違いが出て来ます。この事が染織家に野蚕染ま

らないと云われる所以です。

絹糸の構造

1本に見える絹糸は蚕の体内にある左右1対の絹糸腺

から出された2本のフィブロインがセリシンで覆われた

ものです。

セリシンは水やアルカリに溶けやすい順に4層になって

フィブロインを包んでいます。

その割合は繭の種類によって異なりますが、家蚕ではセ

リシンが20%30%,フィブロインが70% 80%です。

セリシンを取り除く事を精練といって、きれいに精練す

れば滑らかなシホン地の様になり、なん部練りにするか

でシャリ感が出てきたり、生地の風合いや感触が違って

来ます。こうした加工の違いで絹が麻の様にもなりフワ

フワ、スベスベの柔らかい繊維にもなるゆえんです。

フィブロインは1000本のフィブリルの束から出来てい

て、さらにそのフィブリルは900本のミクロフィブリル

から構成されており、ミクロフィブリルは350本の分子

が縦に繋がって作られていて、それぞれが規則正しく縦

方向に並んだ結晶領域と不規則な並び方の非結晶領域が

4:6の割合で出来たものです。

これが絹の性質を決定づけている大きな要因です。

結晶部分の分子は強く引き合い、凝縮しようとするので

引っ張る力には鋼鉄より強いといわれ、弾力性に富んで

います。

非結晶部分は分子の並びがアットランダムなので伸縮性

があり柔らかく、不規則の分子の間に水分も多く吸収で

きるので吸湿性にも優れていて、吸湿する時発熱するの

で絹を着て暫くすると体が温まるという保温効果(空気

を含むというもう一つの理由もある)を発揮し、一定の

湿度を吸収すると放湿を始めるという溜池的な機能を果

たしています。放湿の時発生する気化熱は上がり過ぎた

温度をさますという役割を果たしています。

この様なわけで絹を着用すると品よくほのかに暖かく、

蒸れなくてべとつかなく、気持ちがよいというわけです。

こうした絹を構成する分子の幾種類もの親水基は絹の優

れた染色性にも寄与しています。

この様な糸の構造は繰り返し摩擦が加わると、フィブ

ロインが竹を割った様に裂かれフィブリルが枝毛になっ

て現れます、更に摩擦が繰り返されるともっと細いミク

ロフィブリルも裂けて湯気の様な繊毛を発生させます。

ですから、絹のもみ洗いは避けて下さいという理由です。

また、シャリットしたセリシンが多く含まれた絹を洗う

時はセリシンがニカワ質的蛋白質なので高温で洗濯をす

ると親水性と相まって水に溶け出してしまいます。

絹を長持ちさせるためには30℃以下の水で洗濯すると

よいといわれるわけです。

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