絹と花嫁の角隠し

2019-12-19

綿帽子の始まり

古代日本では政権の武力の基盤である鉄は朝鮮半島か

らもたらされていました。

それを背景に大和朝廷は大化の改新を成功させるのです。

政権基盤が一段落した西暦663年、朝鮮半島で高麗、

百済連合軍に新羅が攻められ、苦戦する新羅に唐が加勢

し、形勢不利になった百済救済に大和朝廷は鉄等の交易

を守る為に、4万の援軍を朝鮮半島の白村江に送ったの

が「白村江の戦い」です。

大和には4万もの兵士に着せる軍装がにわかにありませ

ん。そこで各地で繭生産が振興しはじめて、税の「調」

として納められた、軽く、温かで防矢効果の優れた緜

(真綿)を兵装(胴衣、兜)に使用したのです。

特に兜は何層にも重ねた緜を濡らして固くて着装したよ

うです。

(鎌倉時代の蒙古襲来の時、蒙古兵の軍装は真綿と羊毛

のフエルト)

この時、綿帽子をかぶられて陣頭指揮をとったのが神功

皇后でした。

また神功皇后は応神天皇を懐妊した時、真綿の腹帯を巻

きました。この様なこまごまとした身の回りの世話をし

たのが侍女「伊波多姫(いはたひめ)」で、今日でも妊娠5ヶ月目にす

る腹帯を「岩田帯」というのはその言い伝えといわれて

います。

いよいよ出産となり腹帯が不要になると、伊波多姫はそ

の腹帯を頭に頂き、出産を万事取り計らったと言われ、

その後、祝い事の時は女性の髪の乱れを防ぐ実用を兼ね

て、真新しい真綿や白絹を頭に巻いて勤める風習が出来

たと伝えられています。

その後、伊波多姫の子孫は京都の桂に住んだので、「桂

女」と呼ばれ、出産や祈祷、祝い事などを専らの仕事に

して来ました。そのような時は必ず真新しい真綿を頭に

巻いて行ったようで、これを人々は「桂包(かつらづつみ)」と呼ぶよ

うになったのです。

宮中の観菊

平安時代には9月9日(旧暦)の重陽の節句は菊の節

句とも言われ、宮中では観菊の宴が催され、杯に菊の花

を浮かべて酒を酌み交わし、長寿を祝い、詩を詠みあっ

たそうです。

昔はこの季節、京都では霜の降りる事もあったようで、

菊の花に真綿をかぶせて霜除けをしたのだそうです。

「絹の綿帽子」と呼ばれていました。

菊の香りを含んだ真綿はなんとも言えぬ高貴な香りがし

て、その真綿で体をなでると、その年は無病息災に暮せ

ると伝えられていました。

時として、菊の綿帽子を頭にのせたとも考えられます。

花嫁の綿帽子

江戸時代になると武家を中心に、大きな祝い事である

花嫁の輿入れの時に桂女のかぶっていた綿帽子を花嫁が

かぶるようになって来ました。

しかし庶民にはそうはいきませんので、手ぬぐいをかぶ

る事も有ったようです。

花嫁の角隠し

時代が進むに連れて、綿帽子は、祝い事ばかりでなく、

実用にも色々工夫され、使われました。

寒風を凌ぐ「額綿」。{被綿(かずきわた)}など烏帽子の様な帽子風な

形が出来て来ます。

また、真綿ではなく、練って柔らかくした絹織物も使わ

れるようになってきました。

今日の花嫁の角隠しは意外に新しい事で、明治時代に

なってからの風習のようですが、昨今の結婚式に角隠し

姿を見かける事は少なくなりました。

風俗習慣と云うものは時代と共に知らぬ間に変化して行

くものです。

真綿は軍事にも使われましたが、庶民の生活の中に深

くとけ込み、風邪を引くと喉に真綿を巻いたり、布団や

褞袍(どてら)の皮に使ったり、生活の中にとけ込んでいましたが、

この様な事ももうすぐ忘れ去られようとしています。

戦後人工的に絹を作る研究が進み幾つもの化学繊維が

出来て来ましたが、いずれも絹には遠く及びません。

絹ほど親和性に優れた繊維はまだ他に見つかっても、出

来てもいません。

私達の生活に絹がどんな形で再登場して来るのか期待さ

れるところです。

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